第50話 お龍のお歯黒

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幕末史研究会
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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第50話 お龍のお歯黒

田雪山が聞書きした「千里の駒後日の譚((はなし)」をつづいて見ていく。
寺田屋から薩摩藩邸に着いたお龍は
「大山(綱良)さんに逢って、龍馬等は来ませんかと云ふとイヤまだ来ないが其風体は全体どうしたものだと云ふ。私は気が気でなく龍馬が来ねば大変ですと引返さうとするを、まア事情を云って見よと抱き留めるので、斯様々々と話しますと吃驚(びっくり)し、探しに行かうと云ってる処へ三好さんがブル★震へもって来て、板屋の中で一夜明したが敵が路を塞で居って二人一処には落られぬから私一人来ましたと云ふ、それを聞いて安心と早速大山吉井(玄蕃)の二人が小舟に薩摩の旗を樹てゝ、迎へに行って呉れました。」
お龍は三吉と共に待っているところに龍馬は大山吉井と共に姿をみせた。
この後一月末まで伏見薩摩邸に居り、三十日に京都薩摩邸に戻っている。
「京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へに越(よこ)して呉れましたから、丁度晦日に伏見を立って京都の薩摩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るから籠にのり、私は男粧して兵隊の中に雑(まじ)って行きました。

笑止かったですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持って来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマァ我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び真上へ_冠りをして鉄砲を担(かつ)ひで行きました。処(ところ)が私は鉄漿(かね)を付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御公卿様だなどと戯謔(からか)って居りました。」
お龍はこの時、お歯黒をしていたのである。お歯黒は既婚者の証(あか)しである。龍馬とお龍は既に結婚していたのである。
川田雪山はお龍に龍馬との出合いを語らせている。
「元治元年に京都で大仏騒動と云ふのが有りました。あの大和の天誅組の方々も大分居りましたが幕府の嫌疑を避ける為めに龍馬等と一処に大仏へ匿(かく)れて居ったのです。処●ところ●が浪人斗●ばか●りの寄り合で、飯炊きから縫張りの事など何分手が行き届かぬから、一人気の利いた女を雇いたいと云ふので―こゝで色々の話しがあって―私の母が行く事になりました。此時分に大仏の和尚の媒介で私と阪本と縁組をしたのですが、大仏で一処に居る訳には行きませむから私は七条の扇岩と云ふ宿屋へ手伝方々預けられて居りました。」
お龍のこの話は川田雪山が寺田屋事件について聞く前に語ってもらっている。
元治元年(一八六四)五月頃、大仏の和尚(金蔵寺住職知足院)の媒酌で祝言をあげているのである。これを内祝言と考えて、寺田屋事件のあと、京都薩摩藩邸で一カ月滞在しているうちに中岡慎太郎が仲人で本祝言をして結婚を披露したという。それにつづいて鹿児島旅行があり、それを新婚旅行とするのである。
川田雪山のインタビューは横須賀に住んでいたお龍をしばしば訪れて、かなり詳しく聞いたところ、坂崎紫瀾(しらん)の「汗血千里の駒」や民友社の「阪本龍馬」などは事実が余程違って居ると書いている。
「符合した処も幾干(いくばく)か有るが鷺(さぎ)を鴉(からす)と言ひくるめた処も尠なからぬ」と評している。