第53話 龍馬と寺田屋お登勢-1

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「坂本龍馬八十八話」

小美濃 清明

第53話 龍馬と寺田屋お登勢-1

坂本龍馬はイカルス号水夫殺害事件により、イギリス公使パークスが土佐の須崎港へ入港するのを待っていた。
龍馬は薩摩藩三邦丸で須崎へ慶応三年(一八六七)八月二日に入港している。そして、土佐藩船夕顔で八月十二日、長崎へ向けて出港している。須崎港内に十一日間、滞在していた。
その間に寺田屋お登勢へ手紙を書いている。
《御別申候(おわかれもうしそうろう)より急こ兵庫こ下り、同二日の夕七ツ過ギ、土佐の国すさキ(須崎)と申(もうす)港に付居申候。
先々(まずまず)ぶじ御よろこび。是より近日長崎へ出申候て、又急々上京仕候。御まち可レ被レ遣(つかわさるべく)候。
かしこ
八月五日
l芦
うめより
おとせさま
御本之》

坂本龍馬は松平春嶽から山内容堂へあてた手紙を兵庫港に碇泊中の三邦丸に届けに来た。佐佐木三四郎と話しているうちに三邦丸が出航してしまい、予定せずに土佐の須崎港へ来てしまったのである。
突然船が動き出し、下船できなくなった。この船は薩摩藩船である。龍馬も佐佐木も、船長・航海士とうまく連絡をとっていなかったのだろう。船は予定どおり出港した。龍馬は突然乗り込み、佐佐木と話をしていて、下船しそこなったのである。
そこで、土佐へ行くのも悪くはないと龍馬は考えている。臨機応変である。
しかし、・入港して三日後、お登勢へ手紙を書いたのである。お登勢が帰ってこない龍馬を心配しているだろうという気遣いである。
こうした気遣いが人のこころを魅了するのである。それを龍馬は自然にやっているのである。
龍馬は慶応二年(一八六六)一月、伏見の寺田屋で襲われて、負傷している。そのあと、伏見の薩摩藩邸から京都の薩摩藩邸へ送られた。そして、怪我の治療のため、一カ月、京都の薩摩藩邸内に滞在していた。
寺田屋お登勢も龍馬を見舞いに訪ねている。
この頃、龍馬は諱(いみな)を直陰(なおかげ)から直柔(なおなり)に変えている。これは龍馬が殺害されるかもしれなかった大難から、あやうく逃がれたことがきっかけとなったのではないだろうか。