月別アーカイブ: 2014年4月

夢は夢として

 夢は夢として
        花咲 寿奏

 東北や北海道は、これからが櫻の季節なのに、東京ははや初夏の陽気で季節は新緑、早いものです。早くも夏の商戦を過ぎて初夏の仕事・・・季節を先取りするファッション誌の仕事に携わる私だけに、季節感もやや狂いがちです。それでも初夏への装いは気持ちを前向きにしてくれます。
 これも最近ですが、仕事で知り合って仲良くなった知人が、ご主人の仕事で滞在していたシンガポールから帰国されたので久しぶりにお会いすることになりました。これも楽しみです。この週末は、市の交響楽団に参加しての発表会以来、暫くぶりにフルートのレッスンです。近いうちにまた演奏会がある模様なので、今から備えておく必要があるのです。
 この心の余裕も、朝から晩まで日々仕事に追われている私にとっては、明るい材料の一つです。
 週末には、東北に単身赴任中の夫が帰宅しますので主婦に戻っての平凡な家庭暮らしです。その合間に、仕事絡みの礼状や友人知人への近況報告などを、手書きやメールで送っています。時々、友人に「小まめにメールできるんだから文筆業になったら?」と言われることがあります。
 私には、そんな欲はありませんが、そんな才能があったら・・・正直、嬉しいですね。
 しかし、地道な生活設計を考えると才能のあるなしより、経済的な面を考えてしまいます。本が売れないこの御時世、文筆で生活するのは大変なような気がして、二の足を踏んでしまいます。私自身、ファッション雑誌などを仕事にする関係で、書籍や雑誌の不況は他人事ではありません ここ十年、書籍のデジタル化が進む中で、ファッション雑誌を取り巻く環境も厳しくなるばかりです。
 経費を抑える為に企画会議での食事の差し入れの習慣を止めたり、仕事を詰め込んで一日の仕事量を増やして経費を抑える出版社もあります。
 その都度、出版業界は大変な時代になってしまっていることを、身を持って感じます。
 大手印刷会社で働く学生時代からの友人も、会う度に愚痴ります。
「今は本が売れない時代だから、広告関連も東北大震災後はかなり自粛ムードだし、アベノミクスも企業が広告宣伝費に重点をおく様になるまでには、未だ先の話だからね。景気が悪いと、多方面での雑務が増えて大変なのよ」と話していました。
 この友人とは、十数年付き合いがあるのです。彼女が仕事で扱うのは印刷物ですが、皆で物作りをするという意味合いでは、彼女と私の仕事は全く別なのに価値観が似ているので気が合うのかも知れません。
 話題が出版業界不況になりましたが、私自身、現状の仕事でいっぱいですから対案まではありません。以上が「文筆業は?」と問われたときに頭の中に浮かんだことのあれこれです。
 夢を見たことから発したのに、夢のない話に終始っしたのは、われながら夢がないとは思いますが、自分の狙いは「細く長く大器晩成で」といったところですから、的は外れていないつもりです。以上のように、私の日常生活の基本方針は、のんびり焦らず根気よくですが、勿論、与えられた仕事は120%精一杯やるのが持ち味ですから、時々は疲れ切ってダウンすることもあるのです。
 それでも、限界以上のことを求めるられることもありますが。それに応じられないときに
周囲やスタッフに掛ける負担や迷惑を考えて、安易に引き受けることは出来ません。
 それに、とくに仕事上で華やかなエピソードがあるわけでもありません。 
 恐らく私の所属するファッション業界も、一般の人が思い描く華やさよりも遥かにて地味なのです。これからも地に足がついた状態で焦らず前向きに・・・夢は夢として楽しんで参ります。


経験知識

経験知識 
                PNはる

十人十色、人はいろいろな環境、境遇の中で誕生し、最初の先生である親に物事のいろはを教わる。一番最初の固定観念とも言えるだろう。何が正しくて、何が間違っているのか、判断基準にせよ、人として、男として、女としてどう振舞っていくべきなのかも最初は親に教わる。果たしてそれは確かな情報なのだろうか。
社会が家庭という枠から超えたときに、必然的にいろいろな困難が立ちはだかり、いろいろな価値観があることを知る。しかし、いくつごろまでだろうか、親の常識は世界の常識である。自我とは全く別の領域でそれは働き続ける。この世界観が変わるきっかけとしては、読書、親密な人との交流から始まる。
親というものは「最も真剣に考え抜いて自覚をしてから成るべきだ」と精神分析論の一文にあったが、妊娠して、出産したら実際問題、そこから親だ。未熟であっても、賢人であってもである。未熟さと賢人ぶりはどこで変わるのか?自分に降りかかった問題をいくつクリアすることができたかではなかろうか?月並大抵の人がクリアできることがいわゆる常識だ。恋愛や恋ぐらいは、いや、結婚ぐらいでも大抵の人がする。そこに起こる諸問題、例えば、失恋、別れ、出会い、喜びや悲しみの中で人は継続の仕方や、傷んだ心の解消法を心得ている。人それぞれであってもだ。しかしこの先にある「愛」については言葉で交わされるほど理解はしていない。いや、する経験が少ないために理解しがたい領域になってしまっている。これなしでは人が語れないほど、生きてはいけないほど大事なことが難しい問題として取り残されていく。「好き」の最上級が「愛してる」こんな誤解が生まれる理由だ。
「子供を愛している。」素敵な言葉だが、言葉先行型の人が少なくない。(ただ「愛」を語れば哲学の領域にもなってしまうことではあるが。)他人ごとでは、「愛してるのに、そんなことするの?」「愛してるのにこんなことができないの?」「愛しすぎて過保護ね(親ばかね)」と思い、思われることはよくあり、日常的に交わされる会話の一部だ。
 未熟さと賢人ぶりはここでわかる。未熟な人間は答えの出せなかった問題に対して、答えとしてきたものでしか答えられない。「愛なんて未知数」という答えの経験知識からはその人の発する「愛」という響きに雲がかかっていて、子供が質問すると答えにも雲がかかっている。「愛」を感じて生きてこれた人、「愛」を知った人から発される「愛」という言葉には光がさし、また明確であるのでわかりやすい。
 何を経験し、そこから何を得て、何を失い、そこから知りえた事柄が一番大切なのだ。一喜一憂だけをして生きた人には「疑問は愚問、しかるべくしてなっただけのこと」と、諦めの答えを語ることしかできない。逃げた答えでは子供は納得できないのである。そう、先ほど述べた世界の常識が親ではなくなる理由の一つだ。親が出せなかった答えを、必死で探し求め、そこに答えを設けることができれば……老いては子に従うべし。
 何かの問題にぶつかり、まだ出ていない疑問、愚問は私にも腐るほどある。それに適当な理由をつけて親ぶったことをいうことも多々ある。ただ最終的にすべてに答えが出ることがあったらきっと私も賢者であろう。亀の甲より年の功
 一年に一度は、大人になっても大人になりたいと思う。
今年は一つあった。
「鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」
 これを私の親は逆説で教えた。
「どこに所属しているか、それが大事ではないか?」
 そう教わった私は受験の時にギリギリ上のクラスに受かった。正直つらかった。でも、立派に思われたいと勘違いをして生きてきた。最近正しいこのことわざを知り、その後長男がランクを落とした高校を選んだ。彼は今、成績優秀者。(扱い)自信に満ち溢れ、輝かしいその瞳。それを見たときに、一つ大人になったと思う。 
 子供に嘘、紛らわしいことを自分の経験を交えて経験知識で語るということは避けるべきだ。本当の経験知識は深みがなくてはいけないし、そこから得た真実の情報でなくてはならない。わからないことを分からないと答えられる大人でありたい。わからないことを、いくつになっても探求し続ける大人でありたい。一つでも多くの事柄を知り、それにあまり傾倒しすぎず、大きな視線で物事をとらえられる賢者になることが今の私の目標だ。