高田藩「忠干碑」-1


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

 慰霊碑を読む〝碑のメッセージ

  高田藩「忠干碑」-1

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、開運道顧問)

白河方面には、越後高田藩の飛び地(分領)三万三千石があり、常陸街道の釜子宿に陣屋が置かれていました。陣屋兵は少人数ながら、鳥羽伏見の戦いに出兵し、彰義隊にも加わっています。
はるかな越後の本藩の動向を把握できずに、奥羽越列藩同盟に加わり、東西両軍が白河で開戦すると、陣屋兵も出兵。
六月二十四日、棚倉城が陥ると、翌日陣屋も襲われて焼かれ、以降白河・母成峠・若松城下で戦いました。

「忠干碑」は、陣屋が置かれていた白河市東釜子の長伝寺に建つ慰霊碑です。
篆額の題字は榎本武揚。旧幕府海軍奉行。旧幕府軍を率いて函館で政府軍に抵抗し、維新後は海軍卿・外務大臣等を歴任しました。
碑文の書は、旧高田藩士・中根聞。号は半嶺。隷書に優れた当代一流の書家で、この碑文の書体も隷書です。
碑の文章は山川浩。日光口の会津軍を指揮し、籠城戦では防衛総司令官。維新後は陸軍少将や東京高等師範学校長を歴任します。晩年は白河桜山の、私淑する松平定信の別荘跡の荒廃を嘆き、この地を購入して住み、元会津藩主松平容保をはじめ多くの人が訪れました。「ここにきて 我も庵をむすぶかな 花の匂いをしたふ余りに」
忠干碑

死節諸士碑  従二位子爵榎本武揚篆額
磐城国西白河郡釜子邨 世為越後高田藩主榊原氏之支邑 遣士卒五十余戸戍焉 明治戊辰之乱 奥羽同盟 四隣騒擾 道路梗塞 絶本藩之声息 既而西軍来討 勢甚急 諸士胥議曰 吾藩浴徳川氏之恩久矣 義不可不倶其盛衰也 即相率興東軍奮戦各地 百折不屈 死者十六人 可以見其忠勇義烈矣 今茲庚寅値二十三回忌辰 故旧胥謀欲建碑其邑長伝寺 以表其忠節 来請余文 嗚呼余亦為当時東軍敗将 出万死得一生以至今 肯無有所為 愧於諸士多矣 乃俯仰今昔 叙其概略 係之銘曰
生報主恩 死裏馬革 厥節何烈 厥心何赤 千歳不摩 深刻貞石

明治二十三年歳在庚寅十一月上澣

会津 山川浩 撰
高田 中根聞 書

今回は原文を載せましたが次回は訳文を載せます。