照姫と森要蔵ー2


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

 

「戊辰・白河戦争」ものがたり

照姫と森要蔵-2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

さて、照姫の実家、上総飯野藩保科家には、北辰一刀流千葉道場の四天王といわれた、森要蔵という男がいました。
森要蔵は、神田お玉が池の千葉周作に就いて剣を学び、飯野藩に剣術指南として仕えました。照姫の父である藩主から道場を開くことを許されて、江戸麻布永坂の道場には、門弟が数百人に及び、
〝保科には 過ぎたるものが二つある 表御門と森要蔵〟
といわれるほどの剣客でした。
戊辰戦争になると飯野藩はやむなく恭順したので、要蔵はそれまでの恩義に報いるために脱藩。老骨に鞭をうって末子の虎男や藩士・弟子ら義侠の二十八名を率いて照姫のいる会津に赴きます。
白河では、西郷頼母の指揮下に入り、新選組などと同じく会津街道羽鳥口に出動。このとき、要蔵は上羽太(西郷村)の修験(法印)橘家に宿営しましたが、龍の文様を施した小柄のついた、芥子鞘の小刀を形見として残していき、関の孫六」作と伝わります。
七月一日。要蔵らは激しい戦闘の中を果敢に斬りこみましたが、ついに、西郷村の下羽太で銃弾に斃れ、壮絶な最後を遂げます。要蔵五十九、わずか十六歳の息子虎男も共に戦死しました。
この時の対戦相手は土佐藩八番隊。その中には、なんと、かつて江戸で要蔵と剣を交わした、土佐藩司令官の川久保南皚や、剣術を教えた弟子たちがいました。
要蔵の遺体は、会津兵らの屍とともに村人によって羽太の大龍寺の裏山に埋葬されました。その後「戦死墓」を寺の南方に作り合葬しましたが、川久保らによって丁寧に葬られたとの話もあります。
ところで、森要蔵の孫に講談社を設立した野間清治がいます。清治の父好雄は飯野藩の家老の家柄に生まれ、森要蔵の一番弟子でした。清治もまた剣道に励みますが、怪我により修行を断念。
しかしこのような血筋からか、清治は剣道こそ人格確立と修養の最善の道として「野間道場」を設立し、剣道の普及に尽力しました。
その長男で、二代目の講談社社長となった、野間恒は展覧試合で優勝して、「昭和の大剣士」と謳われました。
また、剣道家でありながら、フェイシングで全米チャンピオンとなって驚愕された、「タイガー・モリ」の異名をとった森寅雄は要蔵のひ孫にあたります。