慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(2)


このコーナーは安司弘子講師(左)、宗像信子講師(右)の担当です。

 慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(2)

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

慰霊碑を読む 〝碑のメッセージ〟

六月ニ至リ、棚倉城モ亦(また)守リヲ失ウ。内膳以下、前後戦没者五十又(ゆう)二人。
前藩主阿部養浩ハ、正静ノ高祖父ナリ。退老シテ多年事ニ与(あずか)ラズ。而シテ夙(つと)ニ王室を尊崇シ、王師ニ抗スルヲ深ク憂イ、コレガ義ニ非(あら)ザルヲ百方説諭ス。
臣下、是ニ於テ首(はじめ)テ、正静ト与(とも)ニ哀レミヲ請イ、帰順セリ。後数月、奥羽悉ク平ラグ。
朝廷乃チ寛仁ノ詔(みことのり)ヲ下シ、藩ヲ復ス。昨日ノ土人、人ミナ更生ノ恩ニ浴ス。是ニ至リテ和気藹然(あいぜん)、四海一家マタ遐迩(かじ)ノ別ナシ。蓋(けだ)シ、藩曩(さき)ニ総督ノ命ヲ奉ジ、出師シテ庄内及ビ会津ヲ討ツ。ソノ異志ナキヤ昭々タリ。ソノ僻在辺陬(へんすう)ヲ以テ、事情通ゼズ。朝旨ノ所在ヲ察セズ、遂ニ順逆ノ誤リヲ致ス。洵(まこと)ニ痛惜ナルベシ。然レドモ内膳等ソノ主ニ誠ヲツクシ百戦命ヲ致ス。マタ烈士トイウベシ。
頃者(このごろ)有志ノ士、胥議シテ白河南湖公園ニ碑ヲ建テ、余ニ之ニ銘スルヲ請ウ。余ハ当時奥羽追討総督ノ参謀ヲモッテ戎族旅(じゅうぞくじゅうりょ)ノ間ニアリ。親シクソノ情ヲ知リ、甚ダソノ志ヲ哀シム。
嗚呼(あゝ)、前日ノ仇敵、今則チ握手歓笑シ、相共ニ王沢(おうたく)ニ浴シ、王化ヲ頌ス。而シテ死者独リ与ラズ。豈傷(いた)マザラン乎(や)。
然リト雖モ、今日清明ニシテ、旧藩恩遇ニ至リ、昔日ニ廻優ス。民ミナ鼓腹(こふく)シテ業ヲ楽シム。死者而シテ知ルコトアリ、亦応(まさ)ニ地下ニ憾(うら)ミ無カラン。
銘シテ曰(いわ)ク。
軀(み)ヲ損(す)テテ主ニ報ジ、節義尊ブベシ。是非順逆、豈細論ノ遑(いとま)マアランヤ。白川ハ旧封ニシテ、夙ニ縁アル所、巋然(きぜん)タル豊碑長ク英霊ヲ鎮メン。

明治十七年九月
元老院議官従四位勲三等 渡辺 清撰
平田 文書
―・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
■棚倉藩阿部家は慶応二年(1866)に白河から転封となり次の年に移動。その翌年に奥羽越列藩同盟に加盟し、旧領の白河に出陣した。
棚倉藩「鎮英魂」碑は南湖公園鏡山に建っている。
■篆額(てんがく)とは、碑の上部に篆書で書かれた題字「鎮英魂」。棚倉藩最後の藩主阿部正功(まさこと)の書。棚倉藩知事。子爵。
■撰文は、渡辺清。肥前大村藩士。渡辺は奥羽追討総督の参謀として、平(いわき市)方面に出陣。維新後は新政府に任官。明治二十四年に福島県知事。男爵。阿部家の十三代阿部正備(のち養浩)は、大村藩主純昌の五男だった。
■撰文の文字は、阿部藩の家老千五百石取りの平田弾右衛門。維新後は文左衛門と改名。初代白河町長。書道に優れ、伯鶴と号す。西郷村の「甲子温泉」の扁額は伯鶴の書。
■阿部正静(まさきよ)。白河藩最後の藩主。幕府老中だった父の正外(まさとう)の致仕により、そのあとを継いだが、棚倉に転封された。
【注】
▲出師(すいし)出兵。▲白石(しろいし)宮城県白石市。▲悃誠  真心のこもっていること。▲壅蔽 ふさぎおおうこと。▲朔(さく)1日。▲晨 早朝。▲午(うま)昼の十二時前後。▲土人 土地の人。▲遐迩 遠いところと近いところ。▲辺陬(へんすう)僻地。▲戎族旅(じゅうぞくじゅうりょ)軍隊。▲鼓腹(こふく)世がよく治まり、食が足りて安楽なさま。▲巋然 高くそびえ立つさま。