甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師【右)の担当です。

 

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11~
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

京都黒谷の金戒光明寺は、幕末、会津藩が本陣とした浄土宗の本山です。会津藩の墓所を管理する塔頭西雲院の橋本住職は合同慰霊祭で白河の住職達とともに読経して下さいました。
橋本住職は、稲荷山に慰霊碑を建立する際の呼びかけに、「声かけをするのでパンフレットを送るように」と協力を申し出て下さり、西雲院とご自身のほかご家族や多数の知人からご芳志をいただいた経緯があり、初めての白河来訪となったのでした。
参加者にはもちろん歴史好きな方が多く、遠距離を厭わず福岡県・岐阜県・大阪府・京都府・愛知県・岩手県など津々浦々に及びました。

新選組にとっても、一番長い戦場となった白河との所縁によって、局長近藤勇と一番組隊長で白河藩士の子沖田総司、副長土方歳三の義兄で新選組を支えた佐藤彦五郎のご子孫達のほか日野新選組同好会など、新選組ゆかりの方達が参加されました。

ほかに、中世時代の白河を治めた白河結城氏の現当主や、最後の白河藩主阿部正外とその家老、勝海舟、木村摂津守など歴史上の人物のご子孫達もいらっしゃいました。

ここにご紹介できないその他大勢の方々のお陰様で、合同慰霊祭が盛会裡に終了したことをしっかりと心に刻み、感動の余韻を胸に感謝の気持ちを持ち続けたいと思います。

戊辰白河戦争で亡くなった人数は1,000人を超えます。
これは名前が分かっている戰死者の数ですが、実は、地元の人だけが知る「あそこには戊辰の時の戦死者が埋まっているので、決して土地をいじらないように」という先祖からの言い伝えや、「しびとぼり(死人堀)」などと呼ばれ、山あいの窪地に誰にも知られず眠っている戦死者もいるのです。

藩が消滅した白河は軍事的に空洞化しており、特異な状況にありました。これほどの犠牲者を出した「白河百日戦争」とも呼ばれる白河での戦闘は、これまで「白河口の戦い」と呼称され、会津の一つの出入り「口」と捉えられてきました。
なぜ知られることがなかったのか、どうして歴史の中に埋没してしまったのか、という疑問の回答はここにあります。

細かい行事を含め記念事業はまだ続きますが、来年3月10日に予定されている「海援隊トーク&ライブ2019」と、3月24日に行われる戊辰白河戦争をテーマにした楽劇「影向のボレロ」は、白河戊辰150周年記念事業の幕引きとなる大きなイベントです。
是非ご参加頂ければと思います。
この項はこれで一段落、改めて出直して参ります。長期のご愛読有難うございました。安司弘子。