平和へのへのメッセージ  2

              宗像善樹

 戦争が終わったとき、戦友は長野の実家に帰らず、遺骨を抱いて、埼玉県浦和市の亡くなった戦友の家を訪れた。
そして、そのまま、戦友の奥さんと子供のたかお君の生活を守るために、一緒に暮らした。日々の生活は、長野の実家が経済的な支援した。
おじさんは、亡くなった戦友の気持ちを推し量って、死んだ戦友の子供を「たかお」と呼ばずに、「ぼうや、ぼうや」と呼んだ。そして、自分の身体の状態を世間に見せたくないから、いつも褞袍を着て暮らした」

 この話を聞かされたとき、私の脳裏に、蝉しぐれの騒がしい鳴き声とともに、次のような情景が浮かび上がってきました。
 それは、私が中学2年の夏休みの時でした。
療養していたたかお君のお母さんが亡くなり、しばらくした後、突然、おじさんとたかお君が、我が家に挨拶にきました。
おじさんが、戦友だった『たかお君のお父さんの『遺骨箱』を抱き、たかお君が、『お母さんの遺骨箱』を抱いていました。
おじさんが両親に向かって言いました。
「これから、ぼうやと、そして、ぼうやのお父さんとお母さんのお骨と一緒に、長野の私の実家に帰ります。ご近所の皆さんが、長い間、この子を見守り、面倒をみてくださいました。本当にありがとうございました」
 話を聞きつけた近所の人たちがぼうやの家の前に集まり、涙をぬぐい、揃って四人を見送りました。

 おじさんが去るとき、そっと私に小さな紙袋を渡してくれました。
その日の夜、自分の部屋で袋を開けました。
 中には、HBのトンボ鉛筆二本と手紙が入っていました。手紙に書いてありました。
「よしきちゃん。いつもたかおと遊んでくれて本当にありがとう。たかおの父より」
おじさんの代筆による、たかお君のお父さんからのお礼文でした。
そして次に、おじさんの名前で、次の一文が書いてありました。
「戦争は、二度としてはいけない」

 このように私は、少年期に、日常の市民生活の中で、戦争の生々しい傷跡を見て育ちました。あの日、おじさんが私に書き残した『戦争は、二度としてはいけない』という言葉を胸に刻んで、今日まで生きてきました。
私は、おじさんが残した大切な言葉を、私たちの次の世代にしっかりと伝えていかなければならないと思っています。

 喜寿を迎えた私は、自分の机の上のトンボ鉛筆を見るたびに、あの時、両親や近所の人たちと一緒に、ぼうやとおじさん、そして、たかお君の両親の遺骨を見送った光景がセピアカラーのように目の前に浮かんできます。
 私の両親も、あの頃の近所の大人たちも、とうに、みんな逝きました。 
 小学校でたかお君と同じクラスだった、私の年子の弟も、先年、逝きました。そして、『おしくらまんじゅう』『缶けり』『だるまさんがころんだ』などのあそびを一緒に楽しんだあのときの友達もみな次々に想い出を残して散りました。  合掌