開運道が目指す「幸福論」-1


 開運道が目指す「幸福論」-1

 

  • フリー素材 丑 に対する画像結果

松が取れたと思ったら早くも1月中旬、仕事もいよいよスタートしました。
 新型ウイルスの猛威があろうとなかろうと2021年の私たちの日常生活は、誰も止めることはできません。私たちはこの厳しい環境の中でも、健全で健康な日日を守り抜かねばならないのです。
 そのためにも私たちは最善の努力をしなければならないのです。
 そこで今回からは、開運道の根幹に関わる「幸せ」についての考えを「日々雑感」に取り入れて書き綴って参ります。
 

  • アラン 幸福論 に対する画像結果

しかし、最近は「幸せ」とか「幸福」という言葉はさっぱり人気がありません。それは、聞き飽きたというより、
 むしろ、これらは「ダサい、うさんくさい、詐欺っぽい。わざとらしい、手垢がついている」と捉える傾向があります。幸せという言葉は知っていてもその実態に触れたことがないから「幸せ」や「幸福」という言葉だけが空しく空回りしているのです。
 この社会現象の要因の一つに、この「幸福」の名称を用いて国政選挙に進出を図った団体の影響もあると分析する社会学者もいますが、私はそれ以前から、人間の最高の至福状態を表わす「幸福」が実体のない言葉遊びになってしまったのです。
 むろん、その団体に所属する会員の皆さまが、中立の第三者か客観的に見て、「幸福」であれば、この言葉も活きるはずです。
 その反面、この「幸福」の名を冠した団体の方々の中に「不幸」な方が多くいたら「幸福」は死語に成りかねません。
 もっとも、私も大きなことは言えません。過去の著作に「幸せになる手帳」などがあるからです。
「しあわせ」という文字を国語辞典(永岡書店)で見る仕合(わ)せ」と「幸せ」に分かれます。
 この二つは、どう違うかといいますと「仕合(わ)せは「幸福、幸運、巡り合わせ」で、グッドラック! です。
 一方の「幸せ」はというと「幸運」とあって、ハッピネス! こちらは、すでに環境が整っているニュアンスです。
 さらに「幸福」を辞書でひくと、「満ち足りて幸せだと感じること、幸い、幸せ」となります。
 そこで「幸福」と「幸せ」は、ほぼ同意語で「全てに満ち足りている」ことが条件になることが分かります。
 もちろん「全てが満ち足りている」と感じるのは主観的なものですから、価値観や満足度は人それぞれ異なっていて当然です。
 そこで提案です。
 これから私の好きな「幸福論」などを紹介したいと思います。
 よろしければ、そのどれかを自分なりの解釈で噛み砕いた上で、実践してみてください。きっと好結果得られるはずです。
 

  • ヒルティ 幸福論 に対する画像結果

そこで何かを感じとることが出来れば、ご自分の日々の満足感や幸福感の微調整に役立つかも知れません。
 幸福論には誰が名付けたか、世界三大幸福論などという言葉もあります。
 その三大幸福論とは、古い順に1891年発表の「ヒルティの幸福論」、1925年の「アランの幸福論」、1930年の「ラッセルの幸福論」とあります。

  • ラッセル 幸福論 に対する画像結果

 これ以外にも、素晴らしい幸福論が沢山あり、どれを好むかは個人の性格との相性によります。
 アリストテレス、エピクテトス、スピノザ、ショーペンハウエル、福田恆存など多くの博学の師が「幸福論」を語り尽くしていますし、トルストイその他、多くの文学者や著名人が、自分の人生を投影して「幸福論」を残しています。
 しかも、そのどれもが強烈な個性を持ちますので、それを信じたら最後、一生、その影響から逃れることは出来ません。
 私は高校生の頃、英語の教師の思想的趣味で「ラッセルの幸福論」を副教材に丸暗記(もうわすれました)させられて以来、「幸福論」亡者になり、未だに「開運道」として「どうしたら人間は幸せになれるか?」の研究実践に携わっています。
 その結果、たどり着いた結論は、ラッセルと英語教師を裏切って、その後学んだ「アランの幸福論」に自分なりの考えを加味した「開運道の幸福論」です。これを用いて、残り少ない人生を、多くの人の幸せづくりに奉げる覚悟です。
 私がアランの「幸福論」を知ったのは高校の教材に使われたラッセルの幸福論の対比に、図書館で探して読んだ幸福論特集の分厚い教要全集の中からでした。その時の衝撃は未だに忘れられません。
 誰も乗りこなせない暴れ馬に近づいた一人の馬使いの男が、馬の首を撫でながら一本のバラのトゲを抜くと、その馬が穏やかさと気高さを取り戻すという名馬ブケファロスの項などは、未だにその情景が目に浮かび、この老化して錆びついた頭の一角に青春の血潮と感性を、ほんのちょっぴり甦らせてくれます。
 アランの「幸福論」の特徴は、複雑な大論文を語るのではなく、あらゆる事物に興味をもって「軽いものも重いものも区別せずに「三面記事をも哲学的に形而上の水準にまで高め」たところにあります。
 さらに、アランが大衆に受ける最大の要因は、アランが純粋な楽観主義で性善説だからだと思います。
 これが今、私の生き方の根源に流れている開運へのキーワードになっているのは間違いありません。
 この章では、ヒルティ、アラン、ショーペンハウエルの「幸福論」から恋愛、結婚について、私(花見)の解説で紹介します。
    この項つづく