月別アーカイブ: 2019年8月

白内障手術記-7


白内障手術記-7

花見 正樹

最近、社会問題化している高齢ドライバーの事故、それに対する社会の風当たりは大型台風並みに高まるばかりです。
お陰で私の周囲の隠居仲間の間では免許証返上組が続出、まだ隠居にはほど遠い現役熟女などの間でも免許証返上が流行中とか。我が家も例外ではなく、子供達は、親である私に向かって無礼にも免許証返上か、免許書き換え中止かの二者択一を迫って苦言のオンパレード、車に関しては私は四面楚歌の中で身を縮めています。

警視庁ウェブサイト「高齢運転者が関与した交通事故発生状況(平成28年中)よると、10万人あたりの死亡事故件数を年齢別の事故の起こしやすさがわかります。
1、16~19歳13.5人/10万人。 2、80歳以上、12.2人/10万人。 3、70~79歳、5.4人/10万人。 4、20~29歳、4.8人/10万人。 5、60~69歳、3.7人/10万人。 6その他。
以上でみると、19歳以下、80歳以上が要注です。
私は83ですから家族の反対も無理はありません。
家族からみれば、家から駅まで歩いてもたかが13分、散歩に丁度いいし、隠居溜まりの築地に行けば乗り物には不便がない、その築地もそろそろ撤退したら? と本物の隠居扱いになりつつあるのです。
私には男の孫がいて小学校5年生、友達と映画や博物館に出かけることも増え、父親離れ祖父離れの年齢にはなりますが、何といっても孫にとってのイナカは我が家、一人で遊びに来られるようになって、アウトドアー仲間の私が免許証がなかったら・・・こう考えると、免許証は私にとっての必需品なのです。
私の手術前の目は、緑内障悪化の右眼視力は裸眼で0.01、眼鏡使用で0.15でした。左眼も緑内障ですが、こちらは失明の心配はなく、裸眼で0.2、眼鏡使用で0.5.両眼の眼鏡使用でかろうじて0.6.このままでは免許証の書き換えは無理です。そこで年甲斐もなく、視野を悪くしていると思われる白内障の手術に踏み切ったのです。
6月16日(日)の午後、視力の弱い右の眼から手術が始まりました。
頭から頬にかけて防水キャップを被ってテープで止め、腕には抗生物質の点滴、暗い部屋で椅子を倒して上を向いた病人衣服の私の顔に向けられた光の輪は煌々と明るく、そこに光る金属が何か知る由もないが顕微鏡を使って濁った水晶体を取り除き、新しい水晶体と取り換える極めて緻密な作業が行われているのは間違ありません。チョキチョキと傷をの細かく何かを刻む不気味でリズミカルな音と、大量の消毒液の流れる音がかすかな執刀医の呼吸とともに聞こえ、視界がぼやけた眼は光の輪。の中に動く手術の一挙一動を懸命に追うのだが、薬で膨張して焦点の定まらぬ視野はただぼんやりと経過を眺めているだけ。麻酔が効いて痛みはなく、手術は呆気ないほど短時間で済みました。執刀医の「成功です」の声に送られ、視野がぼやけて残念ながら顔も名札も見えぬ看護師に優しく手を引かれて、術後の休息と点滴の始末のために、準備室の深々と個別ソフアにへたと座り込んだ時は一気に緊張もほぐれました。そこで、やっと安堵の気分で前後の手術仲間とも冗談を交わしてくつろぐことが出来ました。手術後の眼には金属(アルミ)キャップが被せられ、明日の来院までは外せません。

白内障手術記-6


白内障手術記-6

花見 正樹

  大型台風10号通過の影響もあってか日本列島はすっぽりと熱帯に覆われ、埼玉県熊谷市では、ついに41度を超えました。これでは蒸し風呂、快適な夏どころではありません。もっとも甲子園球児の熱中症をもものともしない活躍を思えば多少の熱さは我慢できます。さて、お盆休みも終わって週明けからはまた新たな気分で仕事です。
開運村も開村してはや十年、それを記念して通信講座に用いていた講座を、そっくりそのまま「独学講座」として公開することにしました。ただし、以前に予告した料金とは少し異なります。
今までの1講座約3万円を、何講座でもダブって学んで1万6千5百円(税込み)で学習できるようになります。ただいま準備中ですが、早くも問い合わせが続いています。
私の目の手術の経過ですが、すこぶる順調、パソコンが眼鏡なしで使えるという若い時からのド近眼がウソのように改善され、家での日常生活には眼鏡なしという信じられないような現状です。これもSU眼科の皆様の協力による手術の好結果、たとえ免許証の書き換えが不可能だったとしても、小説書きに専念できる環境は整いつつありますので感謝感謝です。長年に渉って集めた戊辰戦争関連の資料は書斎からも溢れて山積みにされ、以前からの書きかけ原稿もまだパソコンに未収納のまま放置されていますが、近距離30~40センチに焦点がピタリと合った今、もはや何の迷いもありません。
ただ、ライフワークの長編小説に入る前に、開運道の占い全集1冊の出版予定がありますので、今年いっぱいはまず、弟子&講師陣の力も結集して、来春には世に出したいと願っています。
あれもこれも眼が見えればこそ、銀座の眼科で脅された失明の危機はどうやら遠のいたような気がします。この思いはあの日から始まりました。

 本年6月16日(日)午後1時過ぎ、お仕着せの囚人服(医療衣)に身を包んだ私は、右腕に注射の針を刺したまま抗生物質の点滴を注入された哀れな姿で、車付きの点滴機器を針の刺さった方の手で引きずりながら刑場に向かいます。背後から、私に續く建具屋のAさん達の惜別の声が「行ってらっしゃい」などと明るく薄情に追ってきます。
この日は、午前中が左目手術の方、午後からが右目手術で私は午後の部の4番目、点滴中にパンと飲料各種の支給があって何とか空腹は避けられました。
キリストは重い十字架を自分で背負ってゴルゴダの丘への坂道を登ったことを思えば、点滴途中の準備室から手術室までのたった数メートル,群衆から石も投げられず罵声も浴びせられず、しかも心優しい(と信じる)白衣の天使に手を引かれて、これなら死んでも? いや、よくありません。
ともあれ、2週間ほどの準備期間を経て、死刑台とも思える電機椅子に座らされ、深呼吸して覚悟を決めました。ここで執行人がボタンを押せば、一瞬の痙攣で私はあの世に逝くのです。
普通はその前に牧師が登場してなにかもっともらしい一言を・・・と思っていると、すぐ横から聞きなれた声がします。どうもSU院長が近くにいて死刑執行人に囚人の生前の悪行を教えているらしいのです。それによって刑の軽重が変わるのかもしれません。暗闇の中で、私の耳には、「この方は緑内障がひどいから…」と聞こえました。たしかに私の不注意です。「ハイ」と短く答えた執行人はおもむろに凶器を手にし、その冷たい刃の光が一点に集中したライトの明かりに無気味に光って、いよいよ私に迫ってきました。