第7波コロナ禍に想う
新型コロナの変形であるオミクロン株を主役とする第7波コロナ禍の脅威を尻目に、人数制限なしの大相撲観戦をはじめ夏のイベントが各地で目白押しです。
新型コロナの国内累積感染者はすでに1千万人超、国民の10人に一人がコロナに感染する状況でも、政府の方針は経済優先で国民の健康は二の次でコロナ感染は野放しです。
もはや誰もが一度は病床に伏し、約10日間の高温発熱で苦しみながら、死と隣り合わせの闘病生活を覚悟しなければなりません。
私もすでに86歳という年齢から考えて、感染した場合の覚悟は出来ていて、呆気ない最期もあると思っています。
それにしても、安倍晋三元総理の67歳の不慮の災難は、あまりにも無惨でお気の毒でした。
このような暴挙は絶対に許せません。
だからといって、元総理の全てを美化し、国葬などとは、これも暴挙過ぎます。
元総理と統一教会との関係はともかく、森友学園・加計学園問題や、税金の私物化でもある不透明な「桜を見る会」問題などが未解決、国会でも追及された公文書改ざん問題では、財務省近畿財務局職員の赤木俊夫氏(54)が、この不正な仕事の軋轢(あつれき)に巻き込まれて命を絶っています。
安倍元総理はもう少し長生きして、国民の前で「政権の私物化」も含めて謝罪と懺悔で「頭を下げて欲しかった」、こう思うのは私だけではないはずです。
それでも、わが国には「死者に鞭打たない」という美徳?がありますので、これで全ての疑惑は藪の中。
若くして総理になり、二度の総理選出で在籍期間は歴代最長、外交手腕や国政のかじ取り、アベノミクスなどで対立と賛否両論の中を駆け抜け、それなりの実績があるのは事実ですから、ここは素直にご冥福を祈るのみです。
ただし、国葬などは論外で、私は国民の一人として断固反対です。
何故ならば、疑惑まみれの安倍元総理が国葬ならば、今後も含めて歴代総理全員が国葬の資格ありとされ、税金の無駄遣いだからです。
それとも岸田総理は、自分の将来を考えての前例づくりという遠謀深慮なのか、それならなお反対です。
それにしても韓国の宗教団体に日本の1信者が1億円超の献金で家庭崩壊、これが氷山の一角だとしたら、その恐ろしい闇を暴くことは出来ないのか? それと共通する闇の部分が、日本の国政の表舞台にも多くの影響を及ぼす日本の新興宗教団体にもあるのではないか? この闇は深すぎて暴けませんが、いつの世にもあることかとも思えます。
安倍元総理狙撃事件は、法治国家においてあってはならない不祥事で多くの教訓を遺しています。
私も若き日には友人の経営する警備会社に在籍し、防弾チョッキを着し、伸縮自在の警棒を隠し持ち要人警護を職業の一つとした経緯もあるだけに、この事件は他人事とも思えません。思わず、自分だったらどう動くかをシュミレーションして冷や汗をかきました。
この不幸な出来事とも無縁で、恵まれた環境のこの穏やかな終活期にいる自分の天運にただただ感謝するばかりです。
この新形コロナの第7波を乗り切ることが出来たら、微力ながらもう少しだけ世の中のお役に立ちたいものです。
——————————
仕事は引退しました。


がる原野が目前に現れたのです。これは見事でした。

ここから撮った先週の写真を、3月27日(日)のブログに載せましたので、約一週間後の今日4月2日(土)には、さらに満開の状況がお分かりのことと思います。しかもまだ、風に散る桜吹雪も全くありません。
いよいよ桜の季節が近づきました。
私の整体の師であり、風水の師でもあるのは故蔡一藩(さいいっぱん)師です。
それからは、都内中野区のご自宅や御身内経営の薬膳・中華料理店などに通い、あるいは私の事務所兼サロンに来て頂き、風水をまなんだのですが、それと同時に際師の本業でもある中国整体も教えて頂いたのです。
あの時、もっと真剣に学ぶべきだった、と心の中でi今は亡き師に詫びています。
いま思えば劉備玄徳の故事に倣って「桃下の誓い」の真似とも思えますが、私は棚村翁から愛用のスイス製時計、蔡師からは、なんと数百年も蔡家の家宝とされた純金文字の歴史を秘めた風水盤を頂戴していますので、冗談とも思えません。
ダイヤモンド社(創立1913年)の創始者・故石山賢吉社長の懐刀として知られ、ダイヤモンド社の発展に大きく貢献した功により、自社ビルの一室を生涯重役待遇として使えるという希有な存在で、私の人生にも大きな影響をもたらしています。
その棚村翁から、優秀な後輩として紹介されたダイヤモンド社社員の一人が、やがて社長になって経営合理化の一端として霞が関の自社ビルを売却、神宮前に移転して「世期の蛮行」とされ、先輩諸氏の罵声を浴びながらも会長職までを全うした岩佐豊氏です。その時は私は交流はありませんでしたが、前述の平岡氏などの岩佐氏に対する評価はかなり厳しいものでした。
ところがそれから、かなりの時を経て、親しい年長友人の佐藤堅太郎(元トーハン役員)先輩が、「盟友を紹介する」と言って岩佐氏を連れて来たのです。
岩佐氏は府中市在住で市長とも親しく、町起こしにも拘わっていて、新選組資料などをせっせと持ちこんでくれました。ただ、私自身が大出俊幸氏主宰の近藤勇墓前祭の常連で、新選組ゆかりのご子孫とは交流がありますので目新しい資料はありませんでした。それでも、その岩佐氏のご厚意には感謝の気持ちで頭が下がるばかりでした。その岩佐氏も再会後わずか2年、旧交を暖める間もなく鬼籍に入って、いまや遅しと私を待っています。
私は、殆んど人見知りしないタイプですが、苦手な相手もいて、友人にも、この人とだは同伴禁止にお願いしています。
そうなるとまた、隣近所の町内会や役所や警察にも迷惑をかけますので、仕方なく週に何回かは築地通っていますが、私の事務所兼さろんが、コロナ患者最大の受け入れ先の正路か病院に近いため、終日耐えないオミクロン株発熱者を運ぶ救急車のサイレンで心は痛み、耳はタコ、せいしんてきにもあまりよくありません。その上、目が悪いせいもあってか、時折現れる隠居仲間の顔も、ふと狸やアナグマに見えたりして(女性は別)、埼玉北部の我が家でも築地のサロンでもアナグマ生活に変わりはないことに気づいた次第です。
38年前といえば私はまだ48歳の青臭い生意気盛り、いま思うと恥ずかしいことばかりです。
今では局内に、生前の野村会長を知る者もなく、局の敷地内に建つ銅像が創業者の面影を残しているだけです。それと、同じ敷地内には、野村社長が敬愛する幕末の指導者・吉田松陰の自宅兼松下村塾の学び舎でもある建物のレプリカが、まるで本物が移築されたように建てられていて、今でも長州の革命思想が受け継がれています。なお、その建物は幕末の長州が描かれるドラマや映画各社のロケで、松陰塾の撮影に使われているそうです。
これは、両親が会津出身でありながら東京生まれの私には、長州アレルギーがないこととも無縁ではありません。それでも、小学3年生の戦時中の疎開で知った「什の掟(じゅうのおきて)」や、会津盆地の山々に囲まれた穏やかで稔り豊かな風土、人々の寡黙で秩序ある佇まいには、より多くの郷愁と深い共感を覚えるのです。これは、両親から受けた遺伝子のなせる技なのかもしれません。
ここ数日、寒さが厳しくなっている上にオミクロンなどという厄介な代物に邪魔されて、人込みには近付けませんが、季節の変化は待ったなし、もうすぐ立春、春はもうすぐ近くまで来ています。
それでも春を待つときめきは少々残っていて、もう少しだけ人生を楽しむ気にもなっています。
平安時代の貴族は「人日(じんじつ)・上巳(じょうし)・端午(たんご)・七夕(しちせき・たなばた)・重陽(ちょうよう)の五節句を、大切な行事として考えていたようです。
3月3日の「上巳の節句(桃の節句)」には雛人形を飾ってはまぐりのお吸い物を食して女の子の健やかな成長を祈願します。
7月7日の「七夕の節句(笹の節句)」には、短冊に願いごとを書いて笹に吊るして願望成就を祈願します。
桃の節句と五月人形にも贈り方の作法があって、赤ちゃんが女子でお雛様の場合は、妻側のご両親から贈って頂き、、赤ちゃんが男子の場合は五月人形も鯉登も夫のご両親から贈って頂くのを通例としますが、ご家族にもさまざまな事情があり、なかなかこの通りにはいかないようです。