北海道江刺紀行-2

 

宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 北海道江刺紀行-2

幕末最後の軍艦「開陽丸」は、榎本武揚等の艦隊として品川沖を出港し、北海道での蝦夷共和国を夢見ていました。そして新政府軍と旧幕府軍との間で熾烈な戦いになりました。

しかしながら江差沖に停泊中、突然の局地風で座礁し、土方歳三も見守る中、沈没しました。

慶応4年(1868年)の開陽丸の沈没をご説明します。

ウキペディアによると、

10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵は既に撤退していた。榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。

ところが翌15日夜、天候が急変する。開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。江差沖の海底は岩盤が固く、が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。

主力戦艦たる開陽丸の喪失により、旧幕府軍は新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局(箱館湾海戦)に大きく影響を及ぼすことになる。

とあります。

現在開陽丸は引き上げられ、復元されて開陽丸記念館となっています。

内部は引き揚げた本物の遺物を多数展示してあります。

ぜひお立ち寄りくださいませ。

復元された開陽丸(江差町)

開陽丸 - Wikipedia