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戊辰の戦場跡・母成(ぼなり)峠


 
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私は今、福島県白河市野のホテルで深夜この文を書いていますが、やがて夜が明けます。
 戊辰戦争・白河口の戦いでの東西両軍戦没者慰霊の碑の除幕式に来ていて、各地からの史学家と飲食したところです。
 歴史好き人間にはマニアックな人もいて、語り始めると夜を徹して語り合い、なかなか面白いものです。
 墓地マニア・・・武士、公家、文化人をはじめ古歴史上の人物の墓めぐり、そこから歴史を学びます。
 城郭マニア・・・これには古城専門、山城専門、縄張り(設計)専門の方もいます。
 英雄マニア・・・時代のヒーローのみに興味を持つ有名人好みの専門家です。
 脇役マニア・・・家老とか優れた参謀とか、とにかく主役を避けて人物研究に打ち込むマニアです。
 悲劇人マニア・・・獄殺、暗殺、自害など、著名人の悲劇を研究する専門家です。
 武器マニア・・・多分佐多う五句薩五句薩暗殺された人物とかにっ詩論歩芽切来n物です
多分、このようなジャンルで分類すると50や60にはなると思います。
 私は何でも首を突っ込みますので専門家にも研究家にもなり得ません。
 この日の私は戦場跡マニア、朝、小雨降る会津の戊辰戦争戦場跡をあちこち立ち寄ってきました。
 江戸城無血開城の後、旧幕府軍は今私がいる白河口の戦いで敗れ、二本松城も陥落、いよいよ決戦の場が会津になりました。
 新政府軍は江戸の大総督府参謀・大村益次郎の仙台藩などを潰して外堀を埋める案を蹴った参謀・板垣退助らの案の直接会津を責める案
を採用、怒涛の勢いで二本松から会津盆地に入る北の要所・母成峠に殺到します。
 兵力は板垣らが率いる主力部隊1,300、谷干城率いる土佐軍など総勢2,200。対する旧幕府軍は、大鳥圭介率いる伝習隊伝習隊

400、仙台藩100、二本松藩100、土方歳三率いる新選組若干名の約800名。ここでの数日の激戦も新政府軍が制し、若松城攻略
へと向かうのです。その悲劇はいずれまた・・・

桜の下でのデート


4月の第一週土曜日、東京の桜は満開です。

昨年の第一週は隅田川堤の桜も上野も5分咲きでしたから、寒い日が続いても、やはり一年一年ゆっくりと地球温暖化の波が押し寄せている感じですね。

桜の名所は、全国津々浦々にいたるまであり、人それぞれが自分の住む土地の桜の名所を日本一だと言い張って譲りません。とくに、桜並木が似合う川岸はどこでも桜を眺めての散歩には最適です。隅田川、目黒川、多摩川、河津川、桂川と川の大小に関係なく川と桜はがっちりとタッグを組んでいい関係を保っています。 そこに割って入るのが古城です。
松風さわぐ丘の上・・・と松も似合いますが、春はやはり桜です。

城と桜はよく似合います。江戸城(皇居)、名古屋城、小田原城、弘前城、岡崎城、熊本城、大阪城、若松城、高知城、姫路城・・・城の名を並べるだけで桜を思い出しますし、皇居西北の千鳥が淵など見事な桜で、夜のデートコースなどには最適です。ま、私には関係ありませんが・・・でも、川、城に次いで神社仏閣も黙ってはいません。九段の靖国神社など東京での桜の開花宣言の大元ですから城も川も敵いません。京都八坂神社、清水寺をはじめ全国の神社仏閣の名前を言えば、ほとんどが桜の名所です。なかには、桜より梅で知られる神社もありますが、あれは、昔、梅の実で収益を上げた名残りだとする説もあります。 川、城、神社仏閣、これらが花の名所として名だたるところですが、さらに隠れた名所があります。それはお墓です。 墓地には意外にいい桜が多いものです。青山霊園、多摩墓地などの他に、いくらでも桜のきれいな墓地があります。とくに草木も眠る丑三つどきなどに、男一人で夜桜見物などもしゃれたものです。いつの間にか、隣に手をだらりと下げた着物姿の女の人が足音もなく近寄ってきて、肩を並べて夜桜見物をしているかも知れません。足音がないのは足がないからですが、細かいことは気にしないでください。

と、今年も桜について語りましたが、毎週土曜日は26年以上続くラジオでも、桜の話しをしました。

私の好きな桜の三大名所のことです。

まず、私の好きな桜の第3位は、高遠城の桜です。 兜山城の別名をもつ高遠城は古来より桜の名所として知られています。

戦国時代から国境の拠点として重要視され、諏訪氏一族の内乱から武田氏が奪って岐阜・伊那への守りとします。ところが、天正10年(1582)年2月、織田信長の武田攻めで、長男の織田信忠が5万の大軍をもって高遠城を攻めます。高遠城に籠もる3千の武田軍は必死に戦いますが衆寡敵せず血みどろの戦いの末に守備兵は全滅します。

その時の武田軍の怨念が血色の桜の花の色を鮮やかな赤に染めて、今もなを城を囲む全山を血の色に染めて城を守っています。それは見事な桜です。

2番目は、合掌造りで知られる白川村上流の岐阜県高山市の山奥にある御母衣(みぼろ)ダムの畔にある樹齢450年という2本の見事な庄川桜です。一般に古い桜は花が少ないといわれますが、この庄川桜は並の桜よりいくらか赤みが強く、思わず息を呑むほどの華やかな花を咲かせます。若いころの私は行動的でしたから、渓流釣りを兼ねてどこにでも出掛けました。

ただし、この御母衣ダムの桜だけは釣りとも関係なく、土地の人(性別不問)との約束で何年か、信州側から残雪が残る険しい崖道を超えて満開の桜を見に通った思い出があります。この桜は、ダムの湖底に沈んだ村の神社の境内にあった由緒ある桜で、泣く泣く村を去った村人の強い希望から移されたもので40トンもある巨木を山の上まで運ぶのは大変な作業だったそうです。今は毎年、水没した村から各地に散った村人は、桜の季節になるとごく自然に集まって親戚や知人の家に泊ったりして、それぞれが持ち寄った酒肴と歌や舞やお喋りで、しばしの宴を楽しみ、桜の散るのを見てから三々五々、別れを惜しみながらまた散ってゆきます。

その庄川桜の散り際の見事さは執筆を生業の一つにする私でも筆舌には表せません。なにしろ、風に乗った花びらが見るみる間に湖面を朱に染めてゆくのですから、それは素晴らしい光景です。私は岐阜の奥に行くと、白川村を世界遺産にした元村長のT氏の家や、高山市内の知人の浄土真宗の古寺などに泊っていましたが、白川村のT氏の場合は、村長時代の部下の教育長に村長選で数表差で敗れています。私は、その元教育長(現村長)から小説の素材として膨大な郷土史の資料を預かったまま、です。まだ、それを小説にしていない不義理から今は行けませんが、いずれ、貴重な資料を生かしての小説を書きあげたら堂々とお邪魔するつもりです。

さて、私の一番の桜・・・それは、家の近所の公園の桜です。

誰もいない小さな公園のちびた木のベンチに坐って、一人占めでまぶしいほどひっそりと孤高に咲く桜を眺めます。 そして密かに想像を深めていたりします。

新撰組を書き始めた私にとって、いまや土方歳三は血肉を分け兄弟のような存在ですが、京都のあちこちに咲く満開の桜を見て、歳三は何を思ったか? と、考えます。

豪農の出の薬の行商から京都に上って、尊皇攘夷と称して商家町屋に乱暴狼藉を働く西国雄藩の脱藩浪士らを、恐怖のどん底に陥れた剣の名手も、満開の桜を眺めるときだけは別人のようにおだやかな気持ちに戻るのだろうか? とも考えます。

すると、私と違って、ガキの頃からモテていた歳三は、書き手の私を馬鹿にしたような含み笑いをしてこう言います。
「わしは、おぬしと違って、一人で花見などせんよ」
なるほど、ごもっともです。
歳三の家に近い戸塚村の三味線屋にお琴という娘がいます。

お琴は、歳三が江戸小伝馬町の呉服屋に奉公を、女中を孕ませてクビになったことなど知りませんから、歳三の義兄の佐藤彦五郎の紹介で知り合ったとたんに歳三に夢中になります。

そこで、身持ちの悪い歳三にも所帯を持たせれば何とかなるだろうと周囲が考えて結婚を急がせます。もちろん、お琴は大賛成です。ところが歳三は生意気にも一句ひねります。
「志れば迷ひ 志なければ迷はぬ恋の道」
季句もない下手な句ですが、歳三は真剣に迷ったのです。

自分はこのまま石田村で朽ちる気はない。これから一旗あげて故郷に錦を飾るから、それまで待ってほしい・・・こう考えて、婚約だけはしますが結婚はあいまいに期限も切らずに延ばしてしまいます。このお琴は近隣の村々に聞こえた美人だったそうですが、その後、いつまでも歳三を待ち続けました。

この歳三とお琴のデートのシーンを桜の花びらが散る万願寺の境内に設定するのも悪くないと思います。

慶応元年(1865)、泣く子も黙る新撰組副局長として、新人隊士募集のため多摩に帰卿した歳三は、お琴に京土産に飾り物を持ち帰ったという事実が記録にありますので、これを桜の季節に合わせれば絵になります。ただし、歳三はこの許婚のお琴と本気で結婚を考えていた様子は全くないようです。

もしも、お琴と結婚する気があったなら、京都で親密になっていたあちこちの女を少しは整理したと思います。

別れないペアは?


 水ぬるむ季節になりましたね。
 山奥の雪解け水の清流にはイワナやヤマメが嬉々として相方を求めて泳ぎ、街のあちこちでは若い男女が恋を囁いてイチャイチャし、それを屋根上のカラスがアホーアホーと妬き喚きます。
 男と女の結びつきは千差万別、さまざまな出会いがあり、つい昨日までのアカの他人だった男と女がいつの間にか心身ともに結ばれて一生離れ難くなったり、熱烈な恋愛から別離の悲しみを味わい、劇的な再会をして幸せいっぱいで暮らしたりと、人生は多くのドラマに彩られています。
 しかし、どんな道でも一本道ばかりではありません。曲がり角もあれば岐路もあります。
 そこで意見が食い違えば右と左に分かれることになりますが、一度や二度はどちらかが妥協して同じ道を歩みますが、どんなに我慢強くても三度目には堪忍袋の緒が切れて、プイとお互いに横を見たまま別れの挨拶もそこそこに別々の道を進むことになります。
 この岐路が二人の一生の別れとなる場合が多く、その後の再会や再度の合流は神のみぞ知るのです。
 では、どんな場合に別れることになるのか?
 その過程を大別すると、さまざまな別れの形が浮かび上がり、そこにはそれぞれの岐路があることが見えてきます。
 愛が冷める、これだけでも致命的なのに暴言暴力、さらに生活が困窮する・・・致命的ですね。
 では、最初から愛が薄かったら? これなら長続きしますが面白くも何とありません。それでも、燃え上がる愛情はなくても、並みの思いやりがあれば何とかなります。生涯を通じて平凡が何よりという夢のないカップルも存在しますが、これはこれで立派なものです。ただし、このカップルには外敵がいます。万が一にも外で好きな人が出来たらアウトです。もう夢中になって家庭を顧みずに不倫の恋に熱中し、下手すると別れ道どころか崖から墜落・・・それも落ちるのは一人だけ、などとなって万事窮すです。
 このような視点から多くの男女を見てくると、愛情はそこそこでも、お互いに信頼と尊敬がありその上で共通の目的をもつ組み合わせが一番安定しています。これは、別れ道だからといって別々の道に進んだらお互いに自滅するからです。設計士と建築士、デザイナーと縫製家、パンとバター、紅茶とケーキ、靴と靴紐、文と挿絵、時計の長針と短針、相撲取りとまわしのようなもので、いわば腐れ縁のように、誰も気にしないのに無かったら不便なもの・・・こんなカップルが長続きするのです。
 このように、お互いが必要で結ばれたカップルは、それぞれ相手の人生を支える役割をしますので、結局は別れることを諦めて同じ道を進むことになります。
 さて、今週もNHK大河ドラマの中の「女と男」の物語です。
 龍馬の女好きは今更、断るまでもありませんが、平井加尾、千葉佐那、お徳と並べてもピンときません。龍馬ともっとも親しかったのは、お龍を除けば寺田屋の女将のお登勢以外にはいません。
 幕末維新の嵐のさ中、明日をも知れぬ命の中で、龍馬という風雲児はお登勢の中に安らぎを求めたものと思われます。何といってもお登勢ほど龍馬に尽くした女性はいません。龍馬の服装がいつもバリっとしていたのはお登勢が買ってあげていたという説は的を射ていています。龍馬が寺田屋に出入するようになってからは黒羽二重の羽織や玉虫色の袴でバリっとして急におしゃれになりんますが、これらは全てお登勢が買ってあげていたようです。
 慶応二年の一月、薩長盟約の直後、寺田屋で龍馬が捕吏に襲われたあと、龍馬がお登勢から貰った手紙が残っています。
「かへすがへすもよろしきお便りお待ち申し上げ侯。これのみたのしみ暮らし侯」と、あるのを見ただけで、二人の情の深さが偲ばれますが、さらに、宛先は「龍君様御元へ」、差出し人は「血の薬御存じより」とあるのです。
 血の薬、とは漢方では「四物湯(しもっとう)」という子宮と卵巣に働きかける不妊用の薬でもあるのですが、他にも葛根湯とか胃腸の妙薬とかもありますが、親密な男女の仲を現す隠語とも言われます。
 伏見の船宿「寺田屋」の女主人のお登勢は、龍馬がこの船宿に泊まるようになった神戸海軍操練所の塾頭になった文久三年あたりの三十代に入った頃だった。この頃のお登勢は、亭主の六代目伊助は京都木屋町の妾宅に入りびたりで家にも帰らず、さびしく空閏を守っていた状態だから龍馬とお登勢が親しくなることは必然だったともいえます。
 商売上手で世話好きで男好きする気丈者のお登勢は、国の改革を夢見る薩摩藩の尊攘志士たちに庇護と援助を惜しまず尽くしました。その中でも龍馬に対する愛情は別格だったのは間違いありません。間違いなく、お登勢は本気で龍馬を愛していましたが、それは誰にも言えない悲しい恋で終わってしまいます。龍馬が、「この娘を住み込みの女中に使ってくれ」、こう言って楢崎龍と女を連れて来たからです。私が、お龍や千葉佐那、平井加尾らより、このお登勢に思いが残るのは何故か、未だに答えは出ていませんが、もしかすると、私も似たような思いをけいけんしているからかも知れません。

金メダルに想う


 この週は、冬季オリンピックでテレビから目が離せませんね。
 出発するまでは、マスコミが、「大量のメタル獲得確実」と煽り、選手も「絶好調!」「目標はメタルです」と金だ銀だと大騒ぎしてバンクーバーに出かけました。しかし、いざ競技が始まると予選落ちか、せいぜい入賞まででメタルにはほど遠い。
「力不足だった」「惜しい」「今一歩」「よくやった」と懺悔と慰めのオンパレード、16日午前1時現在、日本選手はまだ1ケもメタルを確保していません。
 それでも、国民もマスコミの目も選手には温かいのです。
「これからだ」「今までは序の口」これからが本番や」と、誰も敗退した選手を責めず、これから出場する選手に期待します。
 それにしても、金、銀、銅へのゴールの遠いこと。これを見ていると、成田空港までは日本の選手のパワー健在で、空を飛んでいるうちに精神的エネルギーの消耗でか体力の減少かは知りませんが、現地到着と同時にパワーダウンして有力選手からただの選手に格下げになるようです。
 話は変わって表題の「女と男」に話題が移りますが、よく結婚式をゴールインに喩える場合があります。
「えー、新郎と新婦は、三年におよぶ長い交際期間を経て、本日ここに目出度く結婚にゴールインしました」などと祝辞で言います。
「人生は山あり谷ありの難コースでして、長距離レースのように苦難に絶えて走る我慢比べのようなものです」
「これから25年の銀は当然として、50年の金婚式、60年あるいは75年のダイヤモンド婚まで頑張ってください」
 と、これらの祝辞から分析しますと、どうやら結婚式がゴールなどというのは間違いです。これは予選通過到達地点で、本番は結婚式以降にあるような気がします。
 その結果、人生のオリンピックは結婚というスタートでも難関があり、結婚というスタート地点から11年の銅、25年の銀を経て、50年の金メダルに到達するのはごく一部の男女だけとなり、オリンピック並みの厳しいレースになるのです。
 これで考えて、3位の銅までの11年なら簡単に見えますが、これがなかなか厳しいのです。
 まず、 離婚&離別についての厚生労働省の統計では、平成14年の離婚は約30万件(298、9836)です。
 結婚は約80万件ですから、8組結婚で3組が離婚という計算になります。
 結婚の内訳は、初婚が約68万、再婚12万・・・20組の内、3組が再婚者入りとなります。
 では、結婚して何年目に離婚をするか? それも調べてみました。
 30万組の離婚組みのうち、銅の11年に届かない10年未満がなんと16万件、銅から銀以下が6万、金以上の統計が残っていませんが、金の50年未満の離別死別は高齢者離婚は激増したことと、夫の死亡などで7万組と離別死別でほとんど消え、金の結婚50年以上は1万組あるかなしかという狭き門になり、60年のオマケ・ダイヤ婚はともかく、本物のダイヤ婚75年などは珍しいだけです。
 長年にわたって結婚相談所を主宰し、人生相談室で離婚相談にも乗ってきた私としては、この異常な離婚の増加は異常としか思えません。まだ統計には出ていませんが、平成21年などは、全国の離婚数は約40万組以上・・・想像を絶す離婚ブームです。
 熟年女性の離婚願望はとどまるところを知りません。
「法改正で、亭主の年金の半分が貰えるようになったから」
「子供も独立していたら、嫌な老亭主の面倒など見たくもない」
「孫の顔を見ながら暮らしたいが、老いた亭主の顔など見たくない」
「友人と旅行を楽しんだり好きな人と自由に生きたい」
 こう思えば、夫を捨てることなど、ゴミ置き場にゴミを捨てるようなものです。
 これが、これからの熟年女性のシャレタ生き方になりそうですね。
 その反面、男にとっては由々しき時代の到来です。
 妻に去られたら惨めになるだけですから、男らは、急に妻に優しく猫なで声で接しますが時すでに遅し・・・いざとなると、女性の決意はかなり固いようですから、男は捨てられるだけです。
 で、人生相談所や弁護士事務所には、これからも離婚についての相談が増えるようなイヤな予感がします。
 それにしても、早く、オリンピックの金メタルの朗報が届くといいですね。

あなたの2月14日は?


 今日はぜいたくにも、贈り物の手作りチョコをかじりながら、冬季オリンピック開幕のテレビを見ています。
 私は毎週土曜日の朝、10時過ぎから20分ほどラジオの地方局の占い番組を電話で続けて30年近くになります。
 若い頃は、フジテレビ、九州朝日放送、山形放送、テレビ岩手、山口放送などに掛け持ちで出張していた時代もありますが、今は電話の感度がよくなりましたので、ラジオなら電話でもスタジオにいるような雰囲気で違和感がないようです。
 地方局も年々予算が厳しくなって、スタジオに呼ぶよりは安上がりですから、すっかり電話になってしまいました。
 それにしても、セチ辛い世の中になりましたね。
 昔は、山口放送などファンを募集してバスで温泉に行き、スタッフ共々ドンチャン騒ぎ,、図に乗ってのヨーロッパツアーなどもありましたが、今はもう旅行どころか招かれても市内のビジネスホテルがせいいっぱいです。
 ただし、晩夏から真夏ですと事情が変わります。鮎の支度をして出かけて局内の同好の士と仕事もそこそこに清流に入るからです。
 鮎釣りとなると体が冷えますから温泉に泊まるしかありません。したがってギャラのおかげで数日は楽しめます。
 それにしても、もう仕事で呼ばれてお互いにいい思いをする時代は終わりました。
 長い間ですから、いりいろなハプニングが生じます。ここでは言いかねるような出来事もありました。もう時効ですが・・・
 さて、今日は山口放送でした。
 まず冒頭に、今日は旧正月の中国では「春節」という元日です。日本の暦では・・・と、た言うとすかさず女性キャスターから「バレンタインデーです」との声があり、大安吉日で、と話し始めようとした私の声は、男性キャスターの「今年は不況で義理チョコも来ませんよ」との愚痴でかき消され、いまどき男女の贈り物論争になってしまいました。おかげで「生まれ月別に見る運勢」と「人生相談コーナー」の持ち時間が激減して私のもっとも苦手な早口言葉で帳尻あわせをして、また来週となってしまいました。

 中国の春節には、朝起きてすぐ年長者に対して祝いの言葉を述べ、その後で近所の知人や親類をまわって春節を祝う言葉を述べるという、日本の年始まわりの原点になる昔からの習慣があります。正月料理となると一般に、鶏や魚を食べるとされますが、広大な大陸でのことですから、都会と地方では正月料理も大きく異なり、北方では餃子、南方では糖菓子を食べるという習慣の違いもあるそうです。

 それにしても輸入チョコレートの高級品の高価なこと、目を見張る思いがしますね。
 元来が、ローマ皇帝の迫害によって殉教した聖ウァレンティヌスさんに由来する記念日なのですから、日本人がこれに付き合う義理などないのですが、商魂たくましい洋菓子メーカーに乗せられてしまった・・・ま、チョコぐらいは許せますが。
 聖バレンタインデーは確かに、世界各地で2月14日を男女の愛の誓いの日としていますが、日本人ほど バレンタインデーだのホワイトデーだのと、チョコのやりとりに狂ったように奔走する妙な文化はないそうです。それと、日本に見られるようなバレンタインのお返しにホワイトデーなどと、対になるような日の習慣は外国にはないとのこと、日本がそれに倣ってホワイトデーの義務を放棄したら・・・いや、そんなこと怖くてできません。
 ただ、次のような習慣は残してもいいかな? とも思います。
 ローマでは、女神ユノの祝日が2月14日でした。ユノはすべての神の女王でもあり、恋愛と結婚の神でもありました。
 祝日に続く翌2月15日からは、豊年を祈願するルペルカリア祭に入り、当時は生活が別々だった若い男と若い娘たちが祭りの期間中だけ一緒に過ごすのです。はじめの日に若い娘たちがそれぞれの名札を桶の中に入れてかき混ぜ、翌日、若い男たちが桶から札を1枚づつ引いて女を選び、そのカップルが祭りの間中パートナーとして一緒に過ごすと決められていたのです。その結果、ほとんどの娘がやがて子供を生み、それが毎年続きますので人口増加につながったそうです。
 当時のローマ帝国の皇帝は、妻や愛する女性がいると兵士の士気が下がるという理由から、兵士の恋愛&婚姻を禁止していたのに、聖ウァレンティヌスは、祭りに結ばれて恋に落ちた男女を哀れみ、秘かに兵士たちを結婚させていたのが密告されて処刑されてしまいます。その処刑の日も2月14日が選ばれたそうです。これによって、この日が恋人たちの日となった・・・本当か嘘かは知りませんが、こんなのが通説のようです。
 神戸のモロゾフ製菓さんが企んだのが昭和11年、それに追随した森永製菓が「愛する人にチョコレートを!」とか何とか新聞広告を出して火をつけ、昭和40年の新宿伊勢丹の「バレンタインデーフェア」から決定的に習慣化したそうです。
 それにしても、女が男に愛情表現としてチョコレートを贈るのは結構ですが、日本型の義理チョコは罪作りでいけません。モテない男の錯覚を招き人生を狂わせかねない悪しき習慣だからです。思いがけない出来事で狂喜乱舞したのが義理だと知って奈落の底に突き落とされ、自殺でもされたら? 殺人幇助ですよ!
 さて、冒頭のぜいたくな手作りチョコのタネ明かしです。小学6年の女の子がクラスの男の子にあげるために頑張った手作りチョコ・・・それを毎年、私にもお情けで三粒ほど分けてくれるのです。涙が出るほど嬉しい話ではありませんか・・・。
 さて、チョコをめぐるあなたのドラマは? それとも無視? それもありですね。

なんとか記念日


 今日は建国記念日の飛び石祭日でしたが、ただただ漫然と仕事をして終わってしまいました。
 国民の祝日と言えばまず「元日」、これは一年の最初の日ですから分かりやすいですね。
成人の日・・・以前は1月15日と決まっていましたので分かりやすかったのですが、今は1月の第2月曜日となっています。ま、これは数日のずれても目くじら立てるほどでもありません。
 春分の日・・・これは2月4日、節分の次の日ですから文句はありません。
さて、建国記念日となると、日付は2月11日、国民の祝日に関する法律では「建国をしのび、国を愛する心を養う」と明記されています。
何をもって建国記念日とするかは国によって異なりますが、日本は神話から、アメリカは7月4日の独立記念日をはじめ、アルゼンチン、イスラエル、インド、インドネシアなど多数の国が独立記念日を建国の日としています。なかには中国のように、毛沢東が天安門で建国宣言をした日がそのまま建国記念日という、分かりやすい国もあります。
 ドイツの建国記念日は10月3日ですが、これはドイツ統一の日でまだ生まれたばかりです。
フランスとなると一味違って、7月14日のパリ祭で、1789年のバスチーユ牢獄襲撃で政治犯を解放したフランス革命のスタート日だといいますから勇ましいですね。
 さて、元日など他の祝日は「祝日法」で定められているのに、祝日の中でただ一つ「建国記念日」だけが、昭和41年の祝日法改正によって「政令(昭和41年政令第376号)」で定められています。
 建国記念日の前身は、明治時代の初期に定められた紀元節で、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来しています。
 占いでは旧暦に換算などしますが、この「辛酉年春正月庚辰朔」をグレゴリオ暦に換算すると、紀元前660年の2月11日に当たる・・・という説もあります。
ところが、肝心の神武天皇が日本神話に登場する架空の人物とする説もあります。
 これこそ、とんでもない話で「小説・縄文幻想」を執筆中の私としては実在の人物と確信しなければ、ふてぶてしく縄文の世界など書けません。ま、そんな立場です。
 神武天皇は、庚午年1月1日(紀元前711年2月13日)に日本の初代天皇となった(古事記、日本書紀による)のは記録にあるのですから。その記紀が疑わしいという説もまたありますが、そんなことは気にせずに信じることにしています。
 「古事記」では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)とか難しい名があり、「日本書紀」では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)などと違う名で呼ばれていますが、そんなことも気にしません。
 しかも、古事記での死亡年齢は137歳、日本書紀では127歳、どちらを信じるかは自由ですが、私も昔は長寿の研究者でもありましたから137歳説をとります。
 今の歴史学会には神武天皇の実在そのものを否定する学者も多いといいますから、作家と比べると学者はなんとも夢がありませんね。私はイナバの白ウサギの逸話も信じることにしています。ただし、丸裸にされて泣いていたのは白ウサギと呼ばれた美しい白拍子だった・・・となりますが。
 さて、話は戻って「国を愛す」のが建国記念日の主旨ですが、その前に命がけで愛せる人がいることが先ですね。愛する人がいてこそ国を愛せますし、その人を守るために命も賭けられますが、婚活もままならないのに「国を愛せ」といっても無理難題というものです。
 男も女もある年齢になれば、当然、好きな異性ができて愛し愛される状態になります。
 これは生物学からいって当然のことで、三大本能の一つである性欲があるからこそ種の保存ができるわけで、もしも、そこに至らない男女がいたら・・・いや、あり得ないことです。
 結婚前の男女は夢をふくらませてあれこれ選択に迷い、既婚者は自分の選択が誤ったことを悔いながら、不純な動機を内に秘めて夢を追う、のが真実です。もちろん、結婚に満足しているカップルも稀にはいます。それは、家庭料理で満足して外食での美味なるグルメを追い求めない人達ですから、それでもいいのです。
 男と女の結びつきは千差万別、さまざまな出会いがあります。つい昨日までのアカの他人が一目見ての愛惚れで心身ともに結ばれて一生離れ難いきずなで結ばれたり、熱烈な恋愛から一緒になって「死んでも離れない」などと、ドラマの中の主人公のような甘いセリフを交わしながら、ある日、小さな出来事からの痴話ゲンカで簡単に別れたり、と人生は無限のドラマに包まれています。
 さて、あなたの愛情に関する記念日は? 初体験、初顔合わせ、デート記念日、結婚、離婚、再婚記念日、なんでも結構ですから思いだしてください。
 すると、どんな人でも必ず、愛する人を思い出すことが出来ます。その愛する人を強く心にきざんでから、その余力でこの日本という素晴らしい国を愛してやってください。2月11日は、そんな日です。
 あ、肝心のことを訊き忘れました。あなたは好きな人を命懸けで愛したことがありますか?

恋愛のかたちー1


これは以前、結婚相談所や人生相談室を主宰したいた村長のたわ言です。
 男と女の恋や愛には様々な形や言葉があります。
 初恋、一目惚れ、婚活、思い込み、片思い、両思い、メン食い、追っかけ、馴れ合い、熟愛、溺愛、腐れ縁、爛れ仲、悲恋、失恋、愛欲、冷戦中、愛憎、騙しあい、熱愛、相思相愛、燃え尽き、家庭内別居・・・さて、あなたに関係の深い語句はどれですか?
 初恋・・・カルピスの味でしたか? 喫茶店デートではコーヒーの香り、漁港での恋は潮の香りが懐かしいと聞いています。
 さて、ここで質問です。もちろん、解答は自問自答で誰に話すわけでもありません。
 質問-1
「あなたの初恋は、何歳(または学年)のときですか?
 初恋の頃を思い出すと、今でも胸がキュンとする人・・・と、いっても幼稚園や小学校低学年時代に好きな子がいて、それを初恋としている人と、高校以降の大人めいた恋を初恋とする人とでは、その思いの軽重に大きな差があるのは当然です。もう、とっくに忘れていた場合も、ここで初恋を思い出すことで脳が活性化して若返りますので、ようく思い出してみてください。
 初恋については面白いデータがあります。
 幼児期や少年少女期に軽い初恋を感じた人は、思春期に本物の初恋?をし、それが相思相愛に発展する可能性が高いそうです。
 それに引き換え、思春期以降に初恋を知った人は、ためらいもあってか片思いになりがちだというのです。
 ましてや、成人になるまで恋の苦しさも歓びも知らずにいた人が、急に好きな人が現われて恋に落ちても、なぜかイライラしたり理屈っぽくなったりして素直になれず相思相愛にはなかな発展せず、結果的に別れてしまうことが多いものです。
 質問-2
「あなたは、初恋の人と相思相愛の交際をしましたか?」
 この質問は期間を問いません。短期間でも密度の濃い男女の交際はあるからです。
 これが苦しい片思いで終わっていると、初恋コンプレックスとなってトラウマがいつまでも残ります。
 初恋で相思相愛になった男女が別れた場合、振っても振られても苦い想い出が残ります。その別れの原因が、相手の浮気だった場合などは異性不信に加えて、恋愛恐怖症とうおまけまでついて来ます。その傷口は初恋であるがゆえに深く長く続きます。
 その傷口を癒すには、新たな恋愛が必要なのですが男女交際に臆病になってしまうと、疑い深くなりなかなか心を許しません。
 質問ー3
「あなたは、初恋の人と結ばれていますか?」
 この質問は現在進行形ですから、今、まさに初恋の人と一緒に過ごしているということになります。
 この場合、幾多の愛情遍歴を経て初恋の人と再会して結ばれた場合は、両手を挙げて祝福します。
 初恋の人と終始一貫相思相愛で他の人を知らず・・・こんな人は? 哀れとしか言いようがありません。

 さて、あなたはいかがでしたか? 
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