銀と銅


 やりました!
 短距離スケートで、銀、銅のダブル受賞です。
 雑草魂を炸裂させた長島選手と天才スケーター加藤選手の二人が同じ表彰台に上がりました。
 日の丸こそ揚がりませんでしたが、氷の状態が完璧じゃない中でよく頑張りました。
「よくやった!」
 私は大満足ですが、あなたはいかがですか?
 若くして短距離の頂点に立っていた加藤選手の、長島選手に負けた悔しさも理解できますが、後輩に追いこされてもくじけずに這い上がって世界二位まで復活した長島選手の根性と執念には頭が下がります。同じチームメートめーとながらめったに言葉も交わさぬ水と油のように相容れぬ性格の二人が、お互いに「相手があったから頑張れた」との率直なコメントは、聞く人の心に響きます。
 ライバルの存在があるからこそ意地でも辛さに耐えて頑張る・・・そこには微妙な共感が通います。
「自分が成長するためには、強力なライバルが必要・・・」
 以前、文学の師で兄貴分でもあった故青山光二師から聞いた言葉です。
 東大出の青山師は、太宰治や芥川龍之介、織田田作之助らとの交流を振り返って、それを実感したそうです。文学の世界で華々しく名声を博した仲間たちを横目に見て、高校の英語教師をしながら苦節数十年、仲間と違う道に活路を求めて書き始めたアウトローの世界、これが受け、東映の任侠シリーズの映画で大当たりして注文が殺到し、ようやく純文学の世界に戻れて叙勲の栄誉にも浴し、92歳で書き上げた「妹子悲し」で、川端康成文学賞を受賞したことで、長かった波乱の執筆人生に花を添えて報われました。
 師は、病床での最後の見舞い客となった私の手を握って名残惜しげに「後は頼むよ」と言い残していますが、いまだに弟子の私は師の遺志をいまだに継いでいません。いま、ゆっくりと後追いを始めたところです。
 ここで、自他共に認める師の後継者の私が師について語ると、師は大正2年2月23日神戸市生まれ、帝大美術史学科を卒業。在学中から織田作之助らと同人雑誌を出したりして文学活動に励み、40代で三度直木賞候補になるも賞に至らず、純文学から任侠路線に移行して活路をひらき、50歳目前に「修羅の人」で「小説新潮賞」、67歳で「戦いの構図」で平林たい子文学賞を受賞し遅咲きの桜がチラホラ咲き始めて叙勲も果たし、平成15年の90歳で書き上げた私小説の「吾妹子(わがもこ)哀し」で川端康成文学賞を受賞し、ギネスブックに載るという騒ぎになるほどの異能作家で作品も数多く遺しています。
 その師も逝って1年半、さらに青山師の兄貴分だった文壇の長老で文化勲章に輝く丹羽文雄翁が、家族の手厚い看護での長期療養の末に100歳の天命を全うしてから、もうすぐ5年・・・月日の流れるのは早いものです。
 このお二人の長年の文壇への功を惜しみ、お二人の頭文字をとって丹青会と命名し、私の事務所を事務局兼サロンにしました。
 川端康成や太宰治、芥川龍之介、森鴎外など文壇での金メダル候補は数え切れないほどいますが、そこから一歩下がって、500を超える珠玉の作品を残した丹羽文雄、異色の作家として輝いた青山光二・・・このお二人を文壇の銀、銅のダブル・メダルに喩えるのは私が控えめだからです。その作品の内容は、堂々たる金に輝いているのはいうまでもありません。
「春あらし 桜を散らす なみだ雨」
 丹羽文雄先生が天寿を全うされた春、ご冥福を祈った私の追悼の句です。
 青山光二師のときは、
「柿落ちて 師のなき日々に 冬近し」
 自分も本気でこれから! と、ついテレビを眺めてコーヒー・・・これが凡人の特権というものです。