バンクーバーオリンピックではもいよいよ大詰め、一周110メートルのショートトラックでの手に汗握る迫力のあるスピードスケートも面白かったし、決勝目指す女子スピードスケートチームの頑張りも楽しみいっぱいですが、一先ず大会の華であるフィギアスケートは終わりました。
男性陣も、高橋、織田選手など頑張ったのですが、女子選手からみると印象が薄いようです。
確かに、浅田真央の銀メダルをはじめ安藤、鈴木両選手の入賞という大活躍には男性陣も惜しみない拍手を送るしかないはずです。
今回の冬季オリンピックも、男子の活躍もあったのも拘らず、女子選手に話題が集中してしまいました。それにしても、女子フィギアスケートは圧巻でした。
完璧な演技の韓国キム・ヨナ選手に大差をつけられての2位ではありましたが、ショート女子シングル史上初となる3回におよぶトリプルアクセル(3回転半)を成功させての総合点の205・503は素晴らしい成績で、金に匹敵する銀メダルと言って間違いありません。表彰台での真央さんには笑顔がなく、小さなミスを悔やんでいる様子でしたが、最善を尽くした上でのミスはやむを得ません。
なにしろ、キムナム選手の得点そのものが歴代の最高得点をはるかに上回っているのですから仕方ありませんね。
天才少女といわれ、早くから頭角を現していながら1年前の悪夢のスランプ、それを克服したからこそ真央さんの今日があるのですから、今回の銀がまた大きな飛躍のチャンスに河全日本選手権で3連覇を達成、昨年はショートプログラムで3回転アクセルのコンビネーションに成功して、国際大会で自分自身としては初めての200点超えを達成したのは見事でした。
しかし、真央さんがスランプに襲われたのはそれからです。その後の大会で、ジャンプの回転不足を厳しく指摘され3回転すら満足に跳べない状態に見舞われ、一時は練習の意欲を失って休養を考えたとも聞きます。
しかも、昨年のグランプリシリーズでは、3回転アクセルが6回挑んで成功はたった1回だったのですから、その後の全日本選手権で4連覇したことが、いかに自信回復に役立ったか・・・これでバンクーバーオリンピックの日本代表選手の切符を手にしたのと同時に、3回転半という大技の成功に進んだのですから運も味方していたのは間違いありません。
ところで、日本の女子フィギアスケートで、殿堂入りした大選手がいるのをご存知ですか?
荒川選手ではありませんよ。もっとずーっと以前です。
ここで名前が出れば、結構スポーツ通です。
全くの独壇場で日本選手権8連覇、同年齢のライバルとは実力の差が歴然としていて相手にならず、同年代の選手には気の毒でしたが、ライバルからも憧れの存在だったそうですから憎い存在だったと思います。もちろん世界的にも有名で、女子選手としては公式戦でトリプルアクセル(3回転半)を世界で初めて成功させて話題になりました。なんと、今から20年以上も前のことですよ。
彼女は、女子フィギュアスケート界に数々の記録を打ち立て、ギネスブックに、「世界でもっとも高得点を得た女子選手」として名が刻まれています。日本人初の世界フィギュアスケート殿堂入りし、3年前に開催された世界選手権の会場で、国際殿堂入りの表彰式が行われたのもテレビで見ました。その選手の名は・・・伊藤 みどりさん。今回のオリンピック選手3人同様に名古屋出身です。
お嬢さんの遊びだった日本のフィギアスケートが、立派なスポーツとして花開いたのは、この伊藤みどりさんの活躍以来です。
私が、自分の小説の中にフィギアスケートを取り入れようと考えたのも、その影響で・・・と、告白しておきます。
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オリンピックと舞姫
今日の「男と女」は、冬季オリンピックから舞姫に飛びます。
男性陣は金を期待できるものはもう残っていませんが、オリンピックの華、女子フィギアスケートの金メダルのチャンスが残されています・・・と、期待を込めてこの一文を書いています。
浅田真央もショートプログラムの本番でトリプルアクセル(3回転半)を成功させ、韓国のキムヨナに次ぐ高得点を叩き出し、19歳での金メダルに向けて存在感を示して絶好調の様子ですし、安藤美姫も連続3回転を成功させて意欲満々、静かな闘志を燃やしている様子が伝わってきます。ギョロ目の鈴木明子もなかなか落ち着いていい得点を出していますから、明日のフリーに向けて三社三様に闘志を秘めていますので楽しみがいっぱいです。
最愛の母を失い悲しみを秘めたカナダのロシェット選手のラ・クンパールシータの調べに乗った魂のこもった素晴らしい演技も、見るものの心を打ち、キムヨナ、真央に次いで3位に入ったのも納得です。
これで、ショートプログラムでの演技は終了しましたが、韓国のキムヨナと日本の浅田真央が最右翼にいるのは間違いありません。
話は変わりますが、昨日、私は三鷹市の親しい文芸評論家で大先輩のO先生邸にお伺いしました。
氏の蔵書野中に丹羽文雄氏の書籍があれば頂こうという魂胆から、約束しての訪問です。JR三鷹駅前で乗ったタクシーでO先生宅の名を告げると、「ここの運転手なら誰でも知っていますよ」と言うのです。やはり、元有名大学の学長で文化勲章の栄誉を得ている著名なO先生ですからここは納得です。
その運転手さんは、ラジオから流れるフィギアスケートの予想からの連想からか、ふと「O先生の文化講演で舞姫を聞きました」というのです。しかも、O先生の文学講演を何度も拝聴しているというのです。三鷹市は文化活動が盛んですから、そのようなこともあるとは思いますが、森鴎外の「舞姫」とは感心するばかりです。
森鴎外の短編小説「舞姫」は、森鴎外がドイツへ留学した4年間の体験を元に執筆された実体験に近いとされる小説です。
貧しい踊り子の美少女と、留学中の官吏である森鴎外の分身の主人公との間に起きた恋物語で、ラストは彼女を捨てて日本に帰国する官吏のやるせない思いを叙情的な文章で書き上げた名作といわれる作品ですが、私は格調高い文体から覘く主人公の利己的な冷たさと優柔不断なご都合主義が気になって、小説の読後感がスッキリしなかったのを覚えています。
勿論、森鴎外の「高瀬舟、山椒太夫、阿部一族、即興詩人、雁」ぐらいまでは見ていますが、永井荷風ほどは傾倒できずにいました。
ところが、ここ数年、森鴎外が晩年を過ごした上野不忍池畔の寓居後の料亭を接待などに用いるようになり、「舞姫」なる吟醸酒も口にするようになりました。
O先生邸にお邪魔するのは、故丹羽文雄と故青山光二を偲ぶ「丹青会」本部に置く蔵書の収集なのですが、青山師の作品は私の書庫から運べばいいだけですが、青山光二師の兄貴分だった丹羽文雄氏の著作は、遅々として集まりません。私も青山作品は在庫がありますが狭い書斎ですから丹羽作品までは収納する余地はありません。しかも、私が小説を書かない異端作家なのに、故丹羽&青山の文壇での偉業を守る「丹青会」主幹の役割を誰も疑わないのです。事情は簡単、直系の弟子がいないからです。
文化勲章にも輝き92歳で文芸賞を得てギネスに載るという大御所の青山光二師の唯一の弟分が私で、青山光二師の兄貴分が丹羽文雄師ですから「丹青会」となると仕方なく、私もこれからは小説書きに専念しなければならないのは宿命のような気もします。
さて、オリンピックは明日に期待・・・これで、楽しみがつながりました。
フィギアスケートに縁のない私が、なぜこの競技に興味を示すか・・・舞の美しさに魅力を感じたのは当然ですが、私の長編小説「迷走海峡」にフィギアスケートが関係しているからです。いずれ、改定してネットで連載をしますので、楽しみにお待ちください。
銀と銅
やりました!
短距離スケートで、銀、銅のダブル受賞です。
雑草魂を炸裂させた長島選手と天才スケーター加藤選手の二人が同じ表彰台に上がりました。
日の丸こそ揚がりませんでしたが、氷の状態が完璧じゃない中でよく頑張りました。
「よくやった!」
私は大満足ですが、あなたはいかがですか?
若くして短距離の頂点に立っていた加藤選手の、長島選手に負けた悔しさも理解できますが、後輩に追いこされてもくじけずに這い上がって世界二位まで復活した長島選手の根性と執念には頭が下がります。同じチームメートめーとながらめったに言葉も交わさぬ水と油のように相容れぬ性格の二人が、お互いに「相手があったから頑張れた」との率直なコメントは、聞く人の心に響きます。
ライバルの存在があるからこそ意地でも辛さに耐えて頑張る・・・そこには微妙な共感が通います。
「自分が成長するためには、強力なライバルが必要・・・」
以前、文学の師で兄貴分でもあった故青山光二師から聞いた言葉です。
東大出の青山師は、太宰治や芥川龍之介、織田田作之助らとの交流を振り返って、それを実感したそうです。文学の世界で華々しく名声を博した仲間たちを横目に見て、高校の英語教師をしながら苦節数十年、仲間と違う道に活路を求めて書き始めたアウトローの世界、これが受け、東映の任侠シリーズの映画で大当たりして注文が殺到し、ようやく純文学の世界に戻れて叙勲の栄誉にも浴し、92歳で書き上げた「妹子悲し」で、川端康成文学賞を受賞したことで、長かった波乱の執筆人生に花を添えて報われました。
師は、病床での最後の見舞い客となった私の手を握って名残惜しげに「後は頼むよ」と言い残していますが、いまだに弟子の私は師の遺志をいまだに継いでいません。いま、ゆっくりと後追いを始めたところです。
ここで、自他共に認める師の後継者の私が師について語ると、師は大正2年2月23日神戸市生まれ、帝大美術史学科を卒業。在学中から織田作之助らと同人雑誌を出したりして文学活動に励み、40代で三度直木賞候補になるも賞に至らず、純文学から任侠路線に移行して活路をひらき、50歳目前に「修羅の人」で「小説新潮賞」、67歳で「戦いの構図」で平林たい子文学賞を受賞し遅咲きの桜がチラホラ咲き始めて叙勲も果たし、平成15年の90歳で書き上げた私小説の「吾妹子(わがもこ)哀し」で川端康成文学賞を受賞し、ギネスブックに載るという騒ぎになるほどの異能作家で作品も数多く遺しています。
その師も逝って1年半、さらに青山師の兄貴分だった文壇の長老で文化勲章に輝く丹羽文雄翁が、家族の手厚い看護での長期療養の末に100歳の天命を全うしてから、もうすぐ5年・・・月日の流れるのは早いものです。
このお二人の長年の文壇への功を惜しみ、お二人の頭文字をとって丹青会と命名し、私の事務所を事務局兼サロンにしました。
川端康成や太宰治、芥川龍之介、森鴎外など文壇での金メダル候補は数え切れないほどいますが、そこから一歩下がって、500を超える珠玉の作品を残した丹羽文雄、異色の作家として輝いた青山光二・・・このお二人を文壇の銀、銅のダブル・メダルに喩えるのは私が控えめだからです。その作品の内容は、堂々たる金に輝いているのはいうまでもありません。
「春あらし 桜を散らす なみだ雨」
丹羽文雄先生が天寿を全うされた春、ご冥福を祈った私の追悼の句です。
青山光二師のときは、
「柿落ちて 師のなき日々に 冬近し」
自分も本気でこれから! と、ついテレビを眺めてコーヒー・・・これが凡人の特権というものです。
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