母の抵抗


 

 木枯らしが電線を鳴らし街路樹の枯れ葉が乾いた音をたてて舗道を走る季節になりました。夏に深緑だった樹木から剥がされ、今は惨めな干からびた茶の病葉になって車に弾かれている光景を眺めると人の世の儚さが見えます。
人間の尊厳を守る理想の自然死は餓死です。食欲がなくなって何日か絶食し水も飲まなくなって枯れてゆき呼吸が止まるのです。
ところが現代の優れた医療は、年寄りでも体のどこかに潜む病気の種を見つけますから死因には必ず病名が付きます。
私の母は94歳で一度ほぼ死にました。それまで母の面倒を見てくれた兄嫁(兄は故人)も甥もギブアップで、身内家族がお別れ見舞いを済まし、医師からも最期を告げられ、応急処置などなんぞの時に医師には責任がない、という書面にも私がサインしました。以前、母が子宮ガンで緊急手術をした時も父が不在中で私がサインしましたから、この時が二度めのサインでした。
この時にどう魔がさしたのか母を我が家で死なせたいと私は考え、医師の承諾を得て自宅に引き取り、周囲や家族の協力もあって要介護度5が1になって奇跡的に元気に外出もできるまでになり、母は我が世の春を楽しんできました。
しかし、今回は高齢で高熱での入院ですから、今までとは状況が違います。
養護施設「元気村」にお世話になって、日頃は杖なしでも歩ける要介護度1の母が10月下旬、ついに39.1度の高熱で地元・埼玉県久喜市南栗橋のS病院に運ばれました。これで最後、誰もがそう思いました。病名は尿感染症です。
担当の若い主治医は韓国籍から帰化したエリート医師で100歳以上の患者を扱うのは初体験だそうで、死んだように高熱にうなされている母親を一目みて「もうダメ」という先入観を持ったのは表情や態度や言葉で分かります。
それからは母の嫌いなオムツですから母もどうやら周囲の気配から死期を感じた様子で食事には一切手をつけません。
どうやら、主治医の「食べないと死にますよ」のハッパに応じて死を選ぶ気持ちにもなっているかのようにも思えます。
私に呟いた言葉で「なかなkお迎えが来ないねえ」が気になります。それでいて私が持ち込む飲食物は少しづつ口にするのです。

ともあれ、点滴だけで命は持ちこたえますが体は一日一日痩せ衰えて衰弱して骨と皮で餓死寸前です。
その時、主治医が、これ以上は治療方法もないからと転院を勧めてくれました。
私も起死回生に転院を望んでいましたから、渡りに舟と紹介状をもらって行ってみたところ、そこは末期患者専門病院で、全員ベッドから起きられない口もきけない死を待つだけの重病者ばかりの病院で面会室もなくリハビリもありません。
速断でお断りして、すぐその足で隣接する加須市のリハビリ有りの療養型病院に行き、そこの内諾を得て主治医と再交渉し12月4日の転院が決まりました。
その前日、病院から緊急電話で98度の発熱で転院は中止・・・すぐ病院に駆けつけたところ熱は下がっていましたが、確かに体力はなさそうですから転院は無理だったのかも知れません。
主治医もまた慌てました。
なぜ急に高熱が出て、すぐ熱が下がったのか? その日は主治医と会えませんでしたが翌朝会うことになりました。
朝会うと、さすがにエリートですから冷静沈着に原因究明に母の精密検査を始めました、
その結果、協力を求められた内科の若い日本人医師が、母の胆のうと肝臓にガンがあり、そのガンが担管を圧迫して胆汁の流れが滞って高熱を発する原因になっていたことを突き止めてくれたのです。
主治医は、率直にガンの摘出は無理だが、胆管を広げる手術は出来る、ただし。口から管を通して手術しますので体力が耐えられるかどうかはギリギリのところで医師でも分からないのです、ここを家族が理解して手術をするかどうか決めてほしい、というのです。
私は母の緊急入院に際して、延命処置はしないという書類を出しています。
しかし、このような病いで高熱にうなされて死ぬのは自然死ではない、手術で失敗するかしないかは私の決断・・・そう思った時、内科の日本人医師が私の顔を見て微かに頷いたのです。この瞬間、私は「お願いします」とその医師に頭を下げました。
医師は、手術は早い方がいい、夜でも帰りに寄ってください」と言います。
夜、寄ってみると母はげっそりしていましたが目は死んでいませんでした。
夜勤担当の男性看護士F君が「手術は成功したみたいですよ」と言ってくれたので少し落ち着きました。
それから2週間、私が再び転院を試みて主治医も了承しました。
弟たち兄弟は今までの母親の経過をみて、今度はもうだめと見切って、弟や兄(故人)の身内はすでに、お別れ面会を済ましています。
あとは、私の通知待ちらしいのですが、私は相変わらず母親の手モミを欠かしませんし年賀状も出します。喪中ハガキは数年後、これは希望ではなく過去の経験と実践で培った勝負カンです。
もしも母がこれで延命したら恩人は、ガンを見つけてくれた若い韓国系主治医と、胆管拡張手術をしてくれた内科の日本人医師です。
私の親しい友人にも医師はいます。
しかし、普通の医者と違って病人を治すのではなく病人をつくらないのです。いわば病人で稼ぐ日本医師会の敵です。
その著書には「医者いらずの健康法」とか、現在このHPの私と同じ「お休み処」で「死に方格差社会」など医師らしからぬ著作が約30冊もある医師なのです。しかも某医科大学の相撲部総監督で、アントニオ猪木率いる新日本プロレスのコミッションドクターなどの経歴の持ち主です。
なにしろ、相撲協会の役員を務めたことのある元関脇の舛田山(現常盤山親方)が学生時代に勝てなかったと私にボヤいたぐらいの強者(つわもの)が、その著書だけでなく本気でアドバイスしてくれますから私はますます病院には近づきません。
万が一、ガンだの糖尿病だの前立腺だのだけでなく、痴ほう症まで見つかったら「ガーン!」と頭をハンマーで叩かれたように目から火が出て人生に希望を失うのは目に見えています。だから病院にも歯医者にも行きませんので健康なのです。+
以上、死にたい願望らしい母の抵抗に逆らって手術や転院を試みる私の賭けが勝つかどうか?
私の提唱する手相・手もみが役立つのか?
母の正月をどう祝えるか?
まずは無事に転院できるかどうか? これからが楽しみです。

賭けに出ます。


師走に入ると頬に吹く風が急に冷たく感じます。
まさか11月末と急に変わるわけはありませんが多分、心理的な季節感の影響だと思います。
師走=冬・・・こんな図式で考えると、モンゴル力士=暴力力士も似たようなものに思えるから不思議です。
今までの情報によると、日馬富士は巡業相撲開催中の10月下旬、鳥取市内の飲食店でモンゴル出身力士同士の飲み会で、先輩に対する態度が悪いと、スマホをいじっていた貴ノ岩を叱責、それに口答えしたため激高して暴力を振るってケガをさせました。
私が最初、相撲関係者から聞いたのはビール瓶からでしたが、いつの間にか平手で約30発、マイクで数発となっていて、一番の凶器で犯罪性の高いビール瓶はどこかに消えてしまいました。凶器がビール瓶だとしたら日馬富士の傷害罪での逮捕は間違いありません。

鳥取警察は、貴乃花親方の訴えで事情聴取はしましたが逮捕はしませんでした。これが、一般の人であれば傷害罪で即逮捕というケースです。
日馬富士の酒癖の悪さは角界では有名で、礼儀作法や相撲道とは縁遠いモンゴル力士同士ですから命に別条なかっただけでホッとします。
それにしても、この事件を通してみても力士の体力がいかに人間離れしているかがよく分かります。
なにしろ、貴ノ岩の診断書には「脳しんとう、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折、髄液漏れ」などの疑いがあり、一般人なら即死か重傷なのに、貴ノ岩はこれでも全治2週間程度の軽傷らしいのです。
さて、この体重100キロを超す力士と比べるのも変ですが、骨と皮と少しの水分だけで20数キロの母と韓国人主治医の場合です。
図式は、私+母対主治医ですが、103歳の母の死を確信している主治医が勝つとは決まっていないのが、この勝負の面白いところです。
ことの始まりは、杖なしでも歩ける要介護度1の母が、お世話になっている高齢者施設で39.1度の高熱で倒れ、救急車で施設近くの救急病院に運び込まれたことから戦いが始まります。
築地で仕事中の私が病院の救急治療室に入った時はもう母の意識は遙かな天空に飛んでいるような状況でした。
しかし、私はあわてません。こんな母に何度も騙されてきたからです。
病名は尿感染症、軽い心筋梗塞、それに肺に大量の水が溜まっていることも分かりました。
入院するまでは、着替えもトイレも一人で出来ていた母が、大っ嫌いなオシメでの寝たきり生活が始り、病院食も嫌いで食べません。
100歳以上の患者をもった若いエリート男性主治医に、母のデリケートな羞恥心とかプライドは絶対に分からないと思います。
主治医が退院先に紹介してくれた病院にお伺いしたところ、その病院は末期患者だけで全員寝たきりでリハビリもなく面会室もありません。たしかに母は末期かも知れません。久し振りに見まいに来た弟達は母の病状をみて「いよいよ大往生」と赤飯でも炊くように長命を祝って身内のあちこちに「今のうちに顔を見ておくように」と早まったお知らせをしています。
しかし、私からみればまだ生きられるのですから、そうはさせません。リハビリさえ出来ればまだ歩けます。
そこで私は賭けに出ました。療養施設のある病院への転院です。それが明日4日(月)です。
ところが邪魔がはいりました。1日(金)の夕方、母が39度の発熱で転院は延期との電話です。その時、私は築地でしたが病院まで2時間、着いてすぐ看護師に熱を測って貰ったら母の熱は36度、主治医はもう帰宅していません。
看護師さんも、いつ熱が下がったのか怪訝な表情でした。
明日の4日(月)、朝から病院で主治医と会って話し合いますが、もう幾らももたない、と確信する主治医と、要介護度5の瀕死状態から我が家に引きとって要介護度1まで戻した私の介護力との103歳母を巡っての真剣勝負の始まりです。大相撲からみれば全く微小で個人的な話ですが・・・

未練たらしくまた母のことです。


 秋が深まり朝晩がめっきり寒くなりました。
落ち葉が風に舞い、歩く人も背を丸めています。
季節がら肌寒いのは我慢できますが、心が寒々とするのはご免です。
母の入院が1ケ月になり、入院の原因だった尿感染症も完治し肺に溜まった水も抜け、病気は治りました。
だったら退院だと思いますがそうはなりまん。理由は食が細くてやせ衰え点滴ではもう体力が回復しないのです。
病気を治したのですから主治医からすれば当然退院です。
かといって家庭では点滴生活は無理ですから、医師は当然、そういう患者を受け入れる病院を紹介します。
ずいぶん親切な病院だと思って行ってみたら、末期症状の寝たきり患者だけで車椅子に乗る人もいない病院でした。
母がお世話になっても面会の部屋もなく病室で会うだけ、リハビリなどもありません。
こんなところはまっぴらごめんで、次に行ったところは大いに気に入ったのですが、一般入院は空き待ちでOK、長期入院はダメです。
理由は簡単、なんと要介護度3以上でないと療養入院が出来ないのです。
そこで、一般病棟に入院してから役所に要介護度の見直しを申請することになりました。
今なら間違いなく要介護度3以上、折角の1を悪くするのですから妙な話です。
ここは療養型病院でリハビリもOKですので、母にはピッタリ・・・ベッドが空けば移れます。、
母は、入院前までは杖なしで歩ける状態で要介護度1、1ケ月で病気も治ったのに痩せ衰えて死に面しているのです。
つい1ケ月前には普通に楽しく暮らしていた母が高熱のため病院食を食べなかったため点滴にされ、自分で行けるトイレも大っ嫌いなオシメにされて人間の尊厳を奪われたまま一気に体力を失ってしまったのです。
若い男性主治医は百歳以上の患者をみるのは初めてですから「もうダメ」の先入観があっても仕方ありません。
母がお世話になっていた施設・元気村の担当者も母の容態を見に来て「点滴がとれてもこの衰弱じゃ」と逃げ腰です。
人間の理想の死は老衰です。
意識は徐々にかすれて食が細くなり、やげて水も飲まなくなって穏やかに呼吸が止まるそうです。
もしかすると母もその域に達しつつあるような気がします。
だとしたら、私もまた穏やかに母の死を看取るのが親孝行なのかも知れません。
なんとしても105歳まで! これは私の手前勝手な無理難題、母にとっては迷惑な話だたのです。
いま母は103歳と3ケ月・・・よく男5人(長男は故人)を育ててくれました。感謝感謝です。
と、悟ったつもりでも子としては親の長生きを願うもの、これから病院です。
もう持ち込み自由ですから、毎回栄養価の高い食べ物を一口でも、と親不孝ですが頑張ってきます。

3連休終了です。


 文化の日からの3連休の最終日もほぼ終わり、今年もまた文化的でない連休が幕を閉じます。
「文化の日」が祭日として制定されたのは昭和23年(1948)で、それまでは明治天皇の誕生を祝う「天長節(明治節とも)」でした。
同年に公布された国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」のが文化の日の趣旨です。
この3連休は長女家族、次女家族、長男家族が集結して久し振りに賑やかでしたが、夫々がお目当ての買い物ツアーだっだり、ライブやコンサートだたり我が家を拠点としてジジババを財布代わりに車3台で出たり入ったりで落ち着きません。
しかも11月生まれが3人いるからと3人の名入りケーキで誕生会ですから主役も曖昧です。
いつもなら施設から外出帰宅の103歳長寿母と主役を分ける7歳小2の男孫が、誕生月でもないのに蝋燭の炎を消していました。
私は、その騒乱の合間にHPの掲載に追われ、入院中の母の元に連日通い続けますから目茶目茶忙しいのです。
この3連休、孫との鯉釣りの時間もなく、潮が引くように子供や孫が去った日曜日の夕暮れ時にこの一文を書いています。
母は熱も下がり肺に溜まった水も引き始め、食が細いため回復は遅れていますが命には別条ないようです。
それにしても母を見ていると、人間の生命力の凄さをつくづく感じさせられます。
食欲がないと病院食を食べないので、いろいろ栄養価のあるものを用意して持ち込むと面白いように食べるのです。
つい先日まで何も食べなくて衰弱していたのがウソのようなのです。
その切っ掛けは、私が「このまま食べないと死んじゃうって医師が言ってたよ」の一言からです。
やはり、「もっと生きたい」のです。
昨年の七夕の短冊は「この幸せが続きますいうに」、今年は「もっと長生き出来ますように」です。
元気村という県内一の評価を得た老人施設にいて100歳以上ただ一人で皆さんから大切にされますから楽しくて仕方ないのです。
しかも、ここ数年でイケメンの介護士が一気に増えていますから余計張り切っているのです。
何故、男性介護士が増えたのかケアマネに聞いてみたら、母体の会社が介護士学校を経営していて、卒業生を傘下の施設に送り込んでいるそうで、母が世話になっている施設が県下一の評価を得たことで優秀な成績の卒業生が送り込まれているそうです。
そんな若い元気な異性に身の回りの世話をしてもらっていたら母の長生き願望は当然・・・これは我が身に置き換えれば理解できます。
と、精神的な若返りが肉体的な若返りを呼び起こす現象で長寿に寄与するのは間違いありませんが、食生活はどうでしょうか?
母親が好きな食べ物は、ご飯、野菜入り味噌汁,漬物、納豆、生卵、煮魚、柿や焼き芋など原始的で、文化的食生活とは思えません。
「文化の日」があるなら「原始の日」や「文明の日」があってもいいような気がします。
もっとも「海の日」「山の日」がありますから「原始の日」は不要でした、失言です。
では「文明の日」は?
文化とは? で調べると「人間の生活様式全体」「人類が築き上げた有形・無形の成果全体」「諸民族それぞれの地域・社会に固有な生活様式」などと定義されています。
さらに、文化的生活となると、それらの生活様式に添った暮らしぶりをいい、それらは学習によって伝習され、相互の交流によって発展し続けること、などと少し複雑になります。
その文化の中に、哲学、芸術、科学、宗教などの精神的活動や所産があり、物質的所産としては、便利さやモダンな感覚などで表現する衣食住関連の全ての物質があり、さらには、民族や社会の風習、伝統、思考方法や価値観など、過去から未来に継承される「文化遺産」「文化住宅」などの聞き慣れた言葉が沢山出てきます。
それに対して「文明」という言葉は、「文化」ほど細かく広範囲には用いられず、時代や地域が限定される上に経済や技術の進歩に重きを置かれているのが特徴です。例としては「黄河文明」などがあります。
そこで、「文化の日」はあっても「文明の日」はなくても不思議ではないことに納得です。
こうして今年もまた「文化の日」からの連休を文化とは無縁に終えることになりました。
さて、ここで自らを省みると、山が好きで川が好き、ご飯・味噌汁・生卵・・・やはり原始人の子は原始人でした。

母も私も正念場


東京オリンピックまであと千日とか、テレビではお笑いタレントがお祭り騒ぎです。
私の目はその時まで持つのか?
曇り日の風冷たき秋の夕暮れ、ふと心によぎる慙愧の思いがあります。
オリンピックに出場するためのアスリート達の血の滲む努力が理解できるからです。
スポーツや武道だけでなく音楽など芸術の世界でも、日本一とか世界一になるにはいかに大変かは誰もが知っています。
私の一族で世界一は、イトコの子・武藤富士津夫六段(福島県警)が1991年の剣道世界選手権優勝者、私は応援団長でした。
自分自身は弓道5段で全くの鳴かず飛ばずで日本選手権3年連続出ると負け、名もない選手権優勝程度で挫折、早々に引退です。
あの時、未熟ながら一所懸命死力を尽くして頑張ったら、もっと何とか成ったのか?
暫し瞑目沈考して呟く言葉はいつも同じ「でも今が一番・・・」、今の自分が実力ですから過去に未練はないのです。
さて、その身内の期待を一身に背負って長寿記録に挑戦と張り切っていた母親が、どうやら103歳で失速気味です。
築地の事務所で仕事中だった私には寝耳に水の「39・1度の高熱で入院」の電話です。
つい先日の敬老の日間では健康で杖なしで歩いていた母親が、お世話になっている施設内で尿感染で発熱し近くの病院に緊急入院です。
27日(金)、入院から数えてまだわずか10数日、早くも担当医から「容態が急変」との緊急呼び出しです。
若い医師に別室に呼ばれて、いよいよ母の終焉かと覚悟を決めました。
以前、我が家に母を引き取る時の末期状態時も、医師に責任はない、かのようなサインをしたことがあります。
千葉県の病院では、「延命治療打ち切り」でサインをしたこともあります。
要介護度5で回復の見込み無しだった95歳の母が、今は要介護度1ですから、もう何も恐れるものはありません。
ギブアップの兄嫁から点滴と酸素吸入の母を引きとって8年を過ぎました。
医師は、母が何も食べないので体力が弱って肺に溜まった水も排除できず、点滴だけでは衰弱して死ぬのを待つだけだと言うのです。
食事さえ取れれば・・・その思いで売店からプリや冷たい飲み物を買って母親に与えたら、なんと旨そうなのです。
医師から「食べないと死ぬ」と脅されたというと、母曰く「食事がまずくて」です。
いままで世話になっていた元気村という施設は食事もまずまずでしたし介護士も親切でした。
病院の看護師はめちゃめちゃ忙しそうで、声をかけるのも遠慮がちになってしまいます。
担当の医師も学校出たてのようで、100歳以上は初めてらしく対応に困っているようです。
そこで私は決断しました。
このままでは、元気村に戻ることも出来ず、といってここも厄介払いしたいのが見え見えです。
母の終(つい)の棲家を探そうと・・・そこで今度は逆手をとって若い医師を呼び出して相談です。
昨日と今日の二日間、母をそっちのけで、その若い医師のプライドと私の意地を賭けた攻防が始まっています。
私の言い分は、母をもう一度健康に戻してくれたら、療養型病院に移して長生きさせて見せます、というものです。
これで、母に投げやりだった若い医師もなんとか、母を一時的にろ元気にしようとした様子です。
明日の日曜は、その医師は休養日だそうですから、私は母が食べるような食べ物持参で面会です。
あれ? たしか自分自身も風邪気味だったのに、すっかり治っているようです。母も私も正念場・・・ここ数日が運命の分かれ道になるかも知れません。

台風、選挙、どちらも大変!


埼玉北部の我が家の周辺は、夕方は雨も風もなく不気味な静けさでしたが、夜になってやはり雨脚は強くなり、雨戸を揺らす風の音も何やら騒がしくなりつつあります。
九州・四国や近畿地方では住民避難の勧告が出たりして大変のようですが、関東でも千葉県などでも同様で、全国的に被害が出始めているようで心配です。
首都圏も明日未明には1時間に300ミリという豪雨を伴った台風21号が襲来すれば、どうなるか分かりません。
多分、通勤時間帯のダイヤの乱れどころの騒ぎではないような気がします。
気象庁によると、今回の台風は、過去最大規模の大型台風だというのですから大変です。
無事に何事もないことを祈るばかりです。
気象庁の予報が当たるか外れるかは別にして、つい数か月前までは台風の目だった小池旋風もついに色あせて負け戦さになりました。
なにしろ、自公合わせて3分の2を獲得する勢いなのですから、自公の躍進を許した野党の敗因は、民主党の分裂や、その一部を受け入れた希望の党との間に生まれたドロドロした醜い分裂劇の影響による自滅とも言えます。
希望の党の敗因は、民主党前原派との野合にもあります。しかも、踏み絵のように受け入れた人と、排除した人を振り分けた横柄な態度も国民の意識を希望の党から遠ざけた一因になります。それらも含めて小池離れに拍車がかかったようです。
しかも、希望の党に排除された側は、枝野氏を党首に立憲民主党を結党して頑張った結果、なかなかの善戦です。
こう考えると、小池さんは組む相手を間違えたのも敗因の一つとして数えられます。
しかも、これで希望の党の爽やかなイメージも消滅しました。
選挙当日を前に出張と称してパリに去った小池党首は、鳥羽伏見の戦いの最中に敵前逃亡した徳川慶喜そっくりです。
て頭部をパリに
それにしても、政治の世界は一寸先は闇・・・つい先日のようにも思える、あの熱狂的な小池人気はどこに消えてしまったのか?
この日、嬉しかったのはボクシングの村田選手のリベンジ圧勝と母の体調回復、それにHPの書き込み完遂です。
これからも宜しくお願いします。

103歳母39度超の発熱で・・・


今週は、「村長の一言」の掲載が母の発熱で少々遅れました。
選挙にも国際問題にも触れずに恐縮ですが、今日も私ごとで失礼します。
この15日(日)は母がお世話になっている施設の年に一度の秋祭りでした。
ところが、生憎の雨で、いつもは施設の中庭で盛大に行われるイベントが室内になります。
これでは、大勢の来客を含めてのイベントですから集客しきれません。
家族ごとに集まる長テーブルは、ここかしこの廊下に並べられ踊りや太鼓集団の演技は見えない場所もあります。
ともあれ、職員の皆さんは揃いのハッピを着て楽し気に立ちまわっていて、利用者も続々と会場に移動中です。
母もこの秋祭りをたのしみにしていて、週末の自宅外出もせずに施設でこの日を待っていました。
なぜ楽しみかと言うと、この日は弟夫婦達も集まって大いに賑わうからです。
それが、朝一番に施設からの電話で、母が高熱で寝込んでいるとのことです。
すぐ行って看護師に状況を聞くと、早朝37度だった熱が、今は39。1度まで上がっている、と言うのです。
「すぐ入院?」と聞きますと、この日は医師不在ですぐ入院とは決めかねるので、抗生物資の投与で様子をみると言います。
この日は介護士や職員全員が祭りの支度や次々に訪れる利用者のご家族の応対でテンヤワンヤの大忙しで会話もできません。
母は、高熱の割りに意識ははっきりしていて、朝から点滴で「何も食べていない」、というので職員のいないのを幸いに、持参した皮をむいて小片にした冷たい柿を出すと「美味しい!」と、旨そうに食べます。
そのあと恒例の手揉みをすると軽いイビキでひと眠りです。その後、看護師が来て熱を測るとなんと37度5分に下がっていました。
顔色も良くなったので、ひとまず私は帰宅しましたが万が一に備えていつでも緊急入院の準備だけはしておきました。
あれから二日目、今日17日(火)の午前10時現在、37度で小安を保っていますので事務所に出勤しました。
肺炎の可能性がありますので、まだ予断は許しませんが105歳の目標達成まであと2年、ここまでは私も一緒に頑張れます。
この状況の中で、折しも昨16日(火)、「占い+長寿の本を書かないか?」と知人からの打診です。
なんだか少しばかりタイミングが悪すぎて、返事は「保留」です。
母がまた今回の危機を乗り切ったら、この話に乗ってみてもいいような気がします。
今日は、午後からの予定が、お相手が風邪で38度の発熱でダウン、用が一つ減りました。
ここ数日前から急に冷え込み、北海道ではあちこちで初雪があったそうです。
急の温度差で体温調整がうまくいかなかったりで体調を崩す人が増えています。
くれぐれもお体大切にお過ごしください。

東軍慰霊祭に参加して。


10月7日(土)、土曜日恒例の電話でのラジオ放送を終えてJR宇都宮線と新幹線を乗り継いで新白河駅まで行ってきました。
目的は、白河市の高台にある通称「山の寺」こと龍興寺で行われる第26回戊辰役東軍殉難者慰霊祭への参加です。
東北への関門でもある白河は、戊辰戦争の数多い戦いの中でも歴史に残る長期に渉る激戦地でした。
この白河に集結した東北各藩連合軍を撃破したことで西軍の優位は動かなくなり、会津への突破口も出来上ったのです。
その白河はすでに秋風冷たく、新幹線の車窓から眺めても北関東の埼玉・茨城から県境を越えて福島県に入ると明らかに紅葉の色合いが明らかに違って見えてきます。
案の定、午後2時30分から、戊辰戦争での戦没者を祀る龍興寺の海野仁兆和尚が厳かに読経を始めた頃は、本堂の入り口近いイスに座った私は足元が吹き込む冷たい風の餌食になって少々涼しい思いをしました。やはり、東京近郊と東北の入り口では気温に差がありました。
祭文奉読と焼香が終り、主催者でもある大出俊幸・元新人物往来社社長の司会で、歴史上著名なご先祖を持つ方々の紹介があり、その後、記念講演として、白河での最後の藩主・阿部正外(まさとう)のご子孫である阿部正靖氏(阿部家22代当主)が、徳川家と阿部家の関係、幕閣における安部家の役割、白河と阿部家、戊辰戦争と阿部家などについて数字を交えて詳しく話されまし
た。


その基礎になる資料のコピーを頂きましたが、これを見ると阿部家だけでなく当時の他藩の状況も推察できますし、つい幕末に思いを馳せて胸が騒ぎモノ書きの血が騒ぎます。

その後、お寺の大座敷での懇親会では、住職自ら作務衣(さむえ)に着替えて調理場に入っての山菜料理や魚介類、白河名物の角のない豆腐入り味噌汁や冷たい日本そば、私はとくに野菜たっぷりで皮がバリっと焼き上がった春巻きが気に入って赤飯と一緒に大いに食べました。
なにしろ、慰霊祭では僧侶の装束で読経をした住職が料理の特徴などを話すのですが、素朴な郷土料理という趣があってなかなかの味で料亭顔負け、お寺さんもなかなかやるものです。
ともあれ、喋る人は喋る、飲む人は飲む、食べる人は食べる・・・何だか楽しい山寺の慰霊祭&懇親会でした。
翌日は、白河の史蹟巡りツアーですが、私は103歳母との付き合いもありますので、夜の新幹線&在来線で帰路につきました。

 

 

再び介護について考えます。


 つい先日、この欄で母の介護の話を載せたところすぐ男女数人の方から相談がありました。
どなたも実父母か義父母の介護で悩んでいられますので、私の場合の心構えなど実際の気持ちをお伝えしました。
私はつい自分のことだけに捉われて「母親」「高齢者介護」についてのみ体験談を申しあげましたが、お問い合わせの中に「認知症高齢者介護」の方がいらして、その大変さに気付かされました。
私の母の場合、役所の介護度審査でも痴呆はゼロで要介護度1ですから、今は全く何の苦労もしていません。
実際、私の親しい友人の奥方(80歳)が認知症で方向音痴の徘徊癖があり、友人は仕事をセーブして家にいて、奥方から目を離さないようにしていて、その大変さはよく分かります。
以前、私が若い頃は「老いた親や身内の障害者は、家族が介護するのが当たり前」という風潮がありました。
そのために私は、酸素吸入、点滴補給で寝たきりの母を兄嫁が預けた病院から引き取った時に悲壮な覚悟を決めたのです。
自分の手で母を看取る・・・介護のカも知らない私にとっては無謀な挑戦で舌が、幸に老妻の手伝いもあって何とかなったのです。ただ、妻は、私から息子に引き継いだ本業の花見化学の経理をみていて私どもは共稼ぎ(少額ですが)、隠居の私より現役なのです。
ともあれ、はじめの1年は無我夢中で母に掛かりっきりでした。
まず築地の事務所を畳み仕事を止め、介護に専念出来る態勢を作らねばなりません。
占いの弟子には急ピッチでラストランさせて免状を出し、月一で開いていたプロ占術家対象の気学教室も中断、夫々に古い書物などを分け与えて終了、隠居仲間の飲み会も閉鎖し、もの書きやNET仕事やラジオ(電話対応)は家でやることに決めました。
訪問介護士(ホームヘルパー)を頼むという選択肢もあったのですが、死期が近い母を看取るのが子の役目、と私は考えたのです。
そのうち、地元の介護施設に勤めるケアマネの協力もあって、母は肩を添えれば自力でトイレに行けるまでで回復し、要介護度も5から4、4から3と下がった頃から、デイサービスで、ケアマネの勤める元気村という施設に通うようになり、私も短時間出勤で築地の事務所に通えるようになり、ホッと一息つけるようになりました。
この「介護」が国の施策として始められた歴史は古く、1970年代から戦争障害者の恩給支給から始まって徐々に公的介護保障が制度化されてきたようです。
その後、1980年代に入って介護人派遣事業の制度化、地方自治体による高齢者の訪問介護などが、家族介護への支えになってきます。
ただ、母が世話になっている介護施設の役員に聞くと、介護の仕事は公的な縛りもあり、高利益を期待できる仕事でもなくボランティア的な側面もあるために従業員に高級は払えず、働く側も知識や資格を必要とし、介護福祉士、訪問介護員など介護支援専門員は、仕事の肉体的・精神的負荷が大きく、仕事の難易度の高さの割には低賃金のために、恒常的な労働力不足の状況にある、と言うのです。
今は昔と違って介護保険法や支援費支給制度によって障害者が在宅介護や施設介護を受けやすくなっていますので、自分だけで悩まずに公的機関の助けやサービスを積極的に受けて労力や精神的な自己負担を出来るだけ軽減すべきです。
この介護の専門性を考えると、いずれは系統だった介護福祉学的な学問分野が確立されてもいいような気がします。これには、現在まだ地道な活動で知られつつある日本介護福祉士会や、その内部組織である日本介護学会の積極的な啓蒙運動が必要不可欠となります。
私は前述のように最近になってようやく、高齢者介護施設の取材を始めています。
以前、文芸春秋社の元社長から介護の話で書籍出版を勧められて、母が世話になっている施設に取材を申し込んで経営者から断られた経緯があります。取材拒絶の理由は、どんなに良くても細かく調べれば、「人材や設備などで不備が出たり陰の部分も見えるかも知れません」とのことでしたが、ここでお世話になった母が、103歳のいまも元気で杖なしでも歩ける状態でいられるのは、この施設での介護のお蔭であるのは間違いありません。今年は100歳以上が私の母だけでしたからといって、特別扱いされているわけでもありませんから、やはり、何かが違うのは確かですので、幹部にはお断りして、地元の市長と約束した地域振興小説の中に取り込むための取材を開始しています。
ここで気づいたのは、高齢者施設の入居者は100%、食事、入浴。排泄の三大介助のいずれかで介護士のお世話になっていることです。
しごく当然のことですが、何もかも自分で出来る私の母でさえ入浴は一人では出来ません。いくら一人で入浴する、と頑張っても、転んだら大変だからと介護士がつきっきりで体まで洗ってくれていて母は不服でも為す術もありません。
この作業には、この施設では数少ない看護師も医療行為だけではなく、積極的に介助に参加していることも知りました。
それにしても、81歳の私が介護する側にいて、高齢者施設には要介護度3以上の70代の入居者がゴロゴロいる事実には驚きます。
健康で長生き・・・日本初のストレス解消サロンを開き、同時に長寿の研究を始めた私としては、「健康で長寿」を旗印に、築地の事務所を整理しての「開運道・癒しサロン」開設も考慮中・・・それにはまず自分自身が健康でもっと長生きしてからのことです。

いま、介護で辛い思いをしている方へ・・・
介護する側のストレス解消と明るい笑顔は、必須項目です。
その心の余裕をつくるには、介護を嫌なものと思わないで済む心構えが必要です。
私は、そのためのお手伝いを考えました。
教えるのではありません。私の実践してきたことをお伝えするだけです。
まずメールで状況をお聞きし、深刻度や重要度など必要に応じて優先順次を決めさせて頂きます。
開運村HP常連で、いま介護中か、これから身内の介護をしなければならない人だけにお伝えします。
私の意を汲んで、その必要性を感じた方は、masaki94581@nifty.com 花見正樹 にメールをください。
出来るだけ速やかにご返事を差し上げます。

座卓を替えました!


昨9月23日(土)、息子に運転を頼んで杉並区浜田山の高級住宅街の小林講師(開運&心霊スポット担当)宅へ行って参りました。
小林講師が世田谷区成城に新築した邸に転居するに際して座卓を譲って頂けるというのでワゴン車で出かけたのです。
美味しい茶菓を馳走になり、いざ現品を見たら何と一枚板で猫足の黒檀・・・小林講師のお父上の代から書道などに使われていたという重量感のある高級品で雑文書きの私などんには不似合いな立派で高価な座卓です。
帰宅してすぐ二階に運び、早速、戊辰戦争専用書斎で使い始めました。
戊辰戦争専用と言うのは、座卓の背後の史料が全て戊辰戦争絡みなだけで、この一文もこの座卓上で書いています。
この部屋は三つに分かれていて長さ10メートル余ですが、これには理由があります。
鮎釣り仲間が泊りに来て、我が家で仕掛けを作る時、殆どの鮎竿が9~10メートルなので、それも考慮したのですが、なかには11メートルの竿を持ち込む釣友もいたりして、あまり役立ちませんでした。
なにしろ夫婦二人だけの家です、最近は釣友も来ませんので子や孫が泊りに来なければ二階は私の専用スペースです。
このウナギの寝床と壁を隔てた左側に、会議室用の円卓を置いた乱雑な私の書斎があり、通常はこちらで仕事をしています。
それにしても、この座卓、さすがに心霊研究で日本の第一人者の小林講師のパワーがしみ込んでいるのか、今日もすでに長時間仕事をしていますが、全くどこも疲れないのです。
これぞ、私の求めていた体に優しい仕事向き座卓、こうなるとますますいい作品を! という意欲が湧いてきます。
これからが楽しみ・・・と、感謝の気持ちを、親友の小林講師にも伝えねばなりません。