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東国三社を歴訪する(4)鹿島神宮

日本は「日の本」、日の丸は「太陽」。太陽が昇る国は「日本」として古から世界の人々、特に西方の人々は羨望の気持ちで見ていたといいます。

その日本で、太陽に一番近い場所が関東・東北という事で、縄文時代からこの場所に鹿島神宮が建てられ、文化が発展していった特別な存在とのことです。

従って、縄文土器や遺跡も関東・東北が一番多く、人口も90%がこの地に住んでいたとされています。

神社に対する記録には、鹿島神宮、香取神宮、そして伊勢神宮の三つがあり、このうち二つの、鹿島神宮と香取神宮が関東にあったということが大事なことで、しかも記録には「大倭日高見国(おおやまとひだかみこく)」という言葉が使われていたことが田中英道教授の調査で解ったということです。

これは、日本は「大倭」と「日高見国」が合体した国であるということが、誰もが読む祝詞に記されているということです。

神道で読む一番大事な祝詞に書かれているにもかかわらず、歴史的な検証がなされず、せいぜい三輪山で太陽を望む印象を言葉にした程度の理解でしかなかったものが、実は関東・東北が日高見国であったという発見です。

その鹿島神宮は、太陽を拝む自然信仰として建てられております。

一般的に神社には神殿がありますが、鹿島神宮には、ないのです。

正門は西で、東に向かって真っすぐな参道があります。太陽が東から昇って降りる本道が中心となっているのです。従って南にある本殿は北を向いています。

この鹿島神宮は「日が高く昇るのを拝む」という信仰でありました。

鹿島神宮には鹿がたくさんいます。もともとは鹿の島だったそうです。

それは縄文海進といって、暖かくなると海が内陸に迫って入ってくる。そこに太陽が昇る一番近い場所(最東端)という地形を利用して建てられています。従って、正門を出てまっすぐ行くと、更に海の中に鳥居が立っています。鹿島神宮は海に寄り添う形で作られたということが分かります。

先ず、鹿島神宮を観ることによって、日本の歴史を知ることができますので、早速中に入ってみましょう。


鹿島神宮は、茨城県鹿嶋市にある神武天皇元年(紀元前660年)創建の神社。全国にある鹿島神社の総本社である。日本を最初に平定し、国譲りを成し遂げた軍神・武御雷神(タケミカズチノカミ)を祭神とする。神社の格式を定めた「延喜式」(927年)では、伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮三社のみが神宮と表記される。

 日本は縄文時代に東国の日高見国に始まった。その中心がここ鹿島神宮であり、神話に登場する高天原である。邇邇芸命(ニニギノミコト)は、鹿島から鹿児島へと船により天孫降臨し、数代の後に神武天皇が西国を征した。神武東征においても、その危機には鹿島神・武御雷神が刀を降ろし(日高見国が加勢)、天皇を助けている。            文・画像提供:鹿島神宮

鹿島神宮境内案内図

  拝殿が北を向いています。本殿は拝殿の後ろ側にあります。拝殿と本殿は真正面にあるのが一般的ですが、鹿島神宮は太陽を拝むのが主要であるので、このように配置されているのですね。

しかし、中にある礼拝所は東を向いているようです。

ここの神様は『古事記』の天地開闢後は、三柱の神様で、最初が天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、次は高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、神産巣日神(カムミムスヒノカミ)の三柱の神様で、総称して造化三神と言われております。

このことはカタカムナの80種のウタヒの中の7番目にも記されております。

(7)「マガタマノ アマノミナカヌシ タカヒムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ」

  勾玉(精神の核) 天之御中主神(宇宙の神) 高御産巣日神(天の神=男) 神産巣日神(地上の神=女) ミスマルノタマ(スカラー波)「カタカムナ記」

そして天照大御神(アマテラスオオミカミ)が初代の神様となります。 この時代が日本の本来の基であったということになります。

そして、ここの御祭神は建御雷神(タケミカズチノカミ)です。

縄文時代は鹿と犬(縄文犬)が一番人間に近い動物で、神として大事にされていました。鹿は皮を衣服にしたり、肉を食料にしたりして大変貴重な動物でした。当時は大神(おおかみ)(狼)もいて、鹿の数も制限されていたようです。国譲り神話において、鹿の神である天迦久神(アメノカクノカミ)が、天照大御神の命(めい)を武甕槌大神に伝える重要な役割を担ったことから、現在でも鹿が神の使いとして大切にされていますと、記されています。(鹿島神宮記)

鹿島神宮 摂社 奥宮

 奥之院も北を向いています。

これは太陽そのものを信仰するということが明らかです。

「慶長十年(1605)に徳川家康公による本宮の社殿として奉納されたが元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるに当たり現在地に引移して奥宮社殿となった」と説明されています。         

 本来は太陽だけを拝むので建造物は無くてもよいのですが、それを形式化し、神社化したのが実は、ユダヤの人、秦氏(一神教の人たち)が来てからなのです。また形式化することによって、このように残っていく。仮に太陽神だけだと拝むのを忘れてしまい、信仰が途絶えてしまうことにもなりかねませんが、彼らの役割はこれを形式化して残したということにあり、大変面白い歴史の事実となっています。                   一時、この環境が荒れた時期もありましたが、科学者たちの太陽が研究の対象になっており、自然というものを大事にする中で復活しています、と田中教授は言います。それも、この鹿島神宮を観ると、納得させられますと・・。

武御雷の神とナマズ 

これは、最近できた建造物ですが、武御雷の神がナマズの上に立っている像です。  本来は剣豪ですからナマズとは関係ないのですが・・、

しかし、要石があり、ナマズは地震を予知する能力があるということで、建てられたのでしょう。

武御雷神は 日本を武力で守ることを教えた神様でもあります。

縄文時代の人々は、殆ど戦争らしきことはしていないと言われています。 非常に穏やかな人たちですから。

それは天照大神が女神だから、国を守るのに戦うことは主要な手段ではないということを示しているわけですが、そこに武御雷神という軍神がいることによって、鹿島神宮はその彼を祭神として守っています。しかし本来信仰の基は太陽なのです、と田中教授はそう仰っておられます。

武御雷神(タケミカズチノカミ)はこの後、天照大御神を護るために二度大きな役割を行っています。一つは国譲りの神話の時に、武御雷神(タケミカズチノカミ)が香取の神宮の神と共に出雲に行き、建御名方神(タケミナカタのカミ)を破り、殆ど戦わずに諏訪に逃げてしまうということで、国を譲らせた事になります。

同時に神武天皇のときに倭(ヤマト)に行かれて、軍勢が病気になったときに「武御雷の神」が刀だけを送り、それを使って勝利した。この軍神が、高天原が戦う時には常に中心になっていたということが分かります。

ナマズについては、地震からナマズが救ったと言われています。滑稽ですが、今でも同じですが・・地層のズレとは言っていますが、誰も予知ができない。それでナマズが起こしたのだという説もあまりバカには出来ない・・・と。 やはり関東・東北は地震が多かったということを表わしていると思います。と田中教授は仰います。

 石(かなめいし)

地中に埋まった要石・・・これが何故祭られる?

見える石は小さいが、巨大な石が地中に埋まっています。

これが本来の神道であると田中教授は言います。

岩、石、樹木など自然の物そのものを信仰する。そこに脅威を、理解に絶する何ものをも感じる・・それが神である。       岩を見て凄いと感じ、それが神を語っていることになります。

それをヨーロッパの人はアニミズムという。

『元々は、すべてに霊魂が宿るという考え方。西洋では、キリスト教が進んでいるという固定観念から、アニミズムを原始的な未開社会の信仰と考えた。』

それが、御霊(みたま)信仰、皇祖霊(こうそれい)信仰と繋がって、全体が神道ですから、神道そのものもアニミズムとは言えない。つまり、アニミズムはその一部である。それをゴッチャにする人は日本人に多い。

本来は御霊信仰という死者に対する信仰、古墳や前方後円墳など皇祖霊信仰(歴代の天皇を始め、皇祖=天皇の祖先の霊を祀ること)、我が家の長を祀るなどの神道にも結びつきます。

この要石は自然信仰の形を今日でも残しています。要するに自然道というのは、自然にあるものを信仰していく。(田中教授)

このことについて、本居宣長が別の定義をしています。(1730-1801)

『35年を費やして「古事記」を研究した他、大昔から日本に脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、中国の儒教など外来的な教えは自然に背くものであるとした』

鹿島神宮の樹叢                       

鹿島神宮の樹叢は天然記念物に指定されております。

広大な森には杉・シイ・タブ・モミの巨木が生い茂り、その種類は600種以上にも及ぶと記されております。参道の樹木は神格化した伊勢神宮と違って、元来そのままの原生林となっています。 縄文時代の人々は原生林そのものを信仰したことが分かります。

 

ある種の畏怖の念を起こすものをすべて神とした。天上の全ての物を作ったのが神ではなく、(そういう神は、日本人は信じない。)日頃見える自然の脅威、自然の畏怖の念を起こすもの、それがみな神であったと。

私たちは常にそういうものに取り囲まれて生きています。この鹿島神宮の野趣あふれる樹々を見ていると、ある種の畏怖の念を感じます。と、田中教授は仰います。

 

1日40万リットル以上の湧水があり、水底が見渡せるほど澄みわたった池。

昔は参拝する前にここで禊をしたという。現在でも200人もの人々が大寒禊を行う。(鹿島神宮)

この池の水は、どんなに干ばつになっても、潤っている不思議な池なのだそうです。

縄文時代は水が信仰の対象になっていました。それを描こうとしたのが縄文土器の表面で、もちろん紐で描く、創造的芸術的な水を意識しようとした考えがあったと思われます。それは水が自然信仰としてあったからで、日本は自然をいかに抽象化してでも信じようとする豊かさを造形的な思考で作り出すという、火焔土器というのは考えられないが、火の上の水をいかに抽象化し、美しく描くかということがあっただろうと想像します。紐を表現手段とすることは変わらないと・・

水そのものを拝む、それがここにも現れています。太陽・木・岩・水という四大要素、火・水・土・地、この四大要素を信仰するというのが、日本にはずっとこの縄文時代からあったことが分かります。

これは、西洋では自然を構成する要素としては元素として考えますけれど、日本ではそのものを信仰する。それで自ら調和を感じるという。あまり理論化はしないがしかし存在は良く知っている。ということができると・・・。

この御手洗池は水らしい水を感じることができます。魚も泳いでいます。と、田中教授は感慨深く語っておられました。

 

高倉下命(タカクラジノミコト)の末社 潮社(いたのやしろ)

関東の神々が関西の神々と一体化している発見

大和の神様だと思われている「高倉下命(たかくらじのみこと)」という神様が、関東の鹿島神宮の神様であった。その神様が大和に行かれたという実証。これまでは大和のことは全て大和の神様がなさったと思っていたが、実は関東の神様が行かれている天孫降臨が、高天原から船で行き、鹿島⇒鹿児島へという関係を作って東征され、そこで会われた神が「高倉下命(たかくらじのみこと)」、その神が鹿島神宮の御祭神の武御雷神の剣を(250数センチ)天から頂いて敵の軍勢を打ち破ったという逸話がある。大和の神だと思っていたが実はこの高天原の地を歩いてみると、ここに高倉下命の末社潮社(いたのやしろ)があり、この地から大和に行かれたのだと分かる。

 神話を読んだり、歴史の町を歩いたりしていると、関東と関西の神々の連携が分かるひとつの例でもありますと田中教授は言います。

「潮社(いたのやしろ)は潮宮(いたみや)とも呼ばれ、鹿島神宮の末社で、高倉下命(タカクラジノミコト)を祀っています。神話の中で、神武天皇が日向を発ち東へ進み大和へ向かったとき、長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にあい、熊野山中で危機に陥りました。このとき高倉下が神武天皇のもとに師霊剣(フツノミタマノツルギ)を持参したとされ、その霊力により軍勢は毒気から目覚め、活力を得て戦に勝利、日本の建国に大いに貢献したとされます。荒ぶる神を退ける力を持つ、この剣は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が葦原中国(アシハラナカツクニ)を平定したときの剣です。(と潮社に記されていた説明です)

高天原と鬼塚

「鹿島神宮の近くにある、太平洋を見下ろす台地。高天原という地名が現在も引き継がれている。鹿島神宮の神である武御雷神がここに登り、国見をした。隣接する「鬼塚」は、武御雷神が従わない鬼たちを退治し、その首を埋めたという。鬼の血で染まったため、今も砂が赤いと伝わる」。

鹿嶋周辺には3か所ぐらい高天原という土地が残っています。

高天原が高いというイメージはなく、海抜40mほどで、丘という感じはしますが、常陸という所を中心とした、鹿嶋、香取を含めたこの地域全体を高天原と言います。それが現実として日高見国という国があったのです。

日高見国というのは、大倭日高見国((おおやまとひだかみこく)という、そこが日本であったと祝詞が言っていますが、日高見国が日本書紀や古事記においては高天原という。

それは倭(やまと)にいた人たちの祖先が住んでいたところで、人が死ぬと神になるという神道のあり方で、祖先たちがみな神々であるという認識が当然その場所が国津神(くにつかみ)、または現地の私領の人たちの関係と同じ日本列島の中でも東の方を神々の国として高天原と呼んだ。そこがこの中心地帯であったということで高天原と呼んだ。ここに書いてあることは多少無理がありますが、そう解釈しないと土地の名前と神話が結びつかない。

日高見国というのは、中部 関東 東北全体が日高見国と呼んだということが、大体記紀によっても分かることで、それは過去の話しだということが書いてある。

しかし私(田中教授)は縄文の時期を日高見国と呼んだ。北海道から三重県まで日高という名前の土地がある。これについては前にも記したが、こうして歩いていると、何気なくあるという所が歴史の冥利というか、実地に歩いていると意外なところに歴史が現れてくることが分かる。つまり、それを知っているかどうかの問題である・・。

鬼 塚

鬼というのはいったいどういう人かというと、一説には縄文人というか、中央と結びつかない人たちというか、一方では、やはり顔が赤くなった白人たち、つまり日本人と違う形をしているわけです。それは外来人、帰化人たちが住んでいたという可能性もある。そういうことも含めて、この時代が現代の地続きにある話だということを、つまり古代という特別視する必要はない。できるかぎり神は人間であったというような荒井白石の話しですが、そういう考え方で見ることは必要である。この辺に高天原という土地があったことで、古い士族たちが、中臣(なかとみ)氏、物部(もののべ)氏といった人たちが、鹿島神宮や香取神宮の近くにいたということを我々は認めることができるだろうと思います。

※荒井白石

江戸中期の朱子学者、歴史、地理、言語、文学など多数な分野に精通した。著書「古史通」では、「古事記」「日本書紀」などを研究し、神武天皇以前の神代史を明らかにした。

同書は、1716年(享保元年)に完成したもので、古代の神々を現実の人間として捉え、高天原は、天上の場所ではなく常陸国(現在の茨木県)だとした。

以上鹿島神宮の散策について、田中英道教授の足跡を追ってみました。

ありがとうございました。

次は東国三社のひとつ、香取神宮を訪ねたいと思います。お楽しみに・・

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。

 


東国三社を歴訪する(3)鹿島神宮の御船祭

鹿島神宮御船祭        

平成14年壬午(みずのえうま)御船祭(みふねさい)は 干支の組み合わせの19番目。               陰陽五行では、十干の壬(みずのえ)は陽の水、十二支の午は陽の火、相剋(水剋火)となります。                                                                                                    

                                            

鹿島神宮の御船祭が12年に一度、午年に斎行されるのは、十二支が一巡すること、また午は方角では南、時刻では正午と陽性が最も盛んであることから来ているとの理由。そしてこの大祭にはあらゆる邪気と不景気を祓う一陽来復の願いが込められているということです。

12年に一度斎行される鹿島神宮の御船祭とはどんなお祭りなのでしょう。鹿島神宮のHPの映像から拝見させていただきましょう。

遠い昔、北の平野が太平洋に続く海だったころ、この高台に武甕槌大神(タケミカズチノオオカミ)をお祭りして鹿島神宮が造られました。神宮に残る古い記録では2600年以上昔のことだと伝えられています。1300年昔の常陸国の風土記にはこう書いてあります。

「あめつちの開(ひら)くるより先、高天(たかま)の原より下り越し大神の皆を鹿島の天(あめ)の大神(おおかみ)という」。

歴史の始まるずっと前ということですね。そして崇神天皇の時代には、神宮に御手座(みてぐら)を建て祭ったとも書かれていますから、少なくても風土記の時代よりもっと前に鹿島神宮はすでに建てられていたということになります。

9月1日 午前10時 例祭

 

天皇のお使い、勅使御参向。1800年も昔、崇神天皇の御手座(みてぐら)のお使いも、きっとこのようにお迎えしたのでしょう。

舞楽・蘭陸王、神輿、提灯櫓、お焚火、神幸祭(午後8時)、行宮(あんぐう)「神様が宿泊される宮」、ここでお祭りの一日目終了。

9月2日 午前8時 ・・・行宮御発與祭(あんぐうごはつよさい)・・神様の御神誉(ごしんよ)の出発前の式典。いよいよ鹿島の天の大神 タケミカズチノオオカミの御仁幸(ごじんこう)。後に従う供奉(ぐぶ)の人々は、なんと2600人以上、約2kの道を御座船が待つ大船津へと向かいます。

すごい行列。次から次へと旗やのぼりが通り過ぎます。人々の陣羽織や武具の飾りが陽の光にぎらぎら輝きます。

国宝・布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。

1300年の昔にかかれた古事記にはタケミカヅチの大神が、この剣となって神武天皇の危機を救われたと書かれています。神宮の法物(ほうぶつ)です。

御神誉(ごしんよ)の鹿島神宮御座船の出発です。水上13キロ、90艘にも及ぶお供の船が後に従います。

香取神宮の旗が立つ御座船、香取神宮のお迎え船です。はるばる本利根川の香取の坪宮から、この常陸利根川の加藤洲まで香取神宮の宮司さん神職二人が船で来られて、鹿島の武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」のお迎えするお迎え祭りを行います。

4月に行われる香取神宮の式年神幸祭にも、12年に一度のお舟遊びがあり、その時には鹿島神宮のお迎え船が宮司さん神職さんを乗せて、牛ヶ原に向かい、香取神宮の経津主大神フツヌシノオオカミ」のお迎まつりをおこないます。12年に一度、鹿島と香取の神様がお互いに向かえ合われるのです。

「香取神宮 お迎え祭」の儀式、「浦安の鈴舞い」12年前の午年に生まれた可愛い巫女さんたちの舞が奉納される。お迎え祭りが終わると御座船は対岸の潮来河岸に向かい、数々の舞が奉納される。「日立成沢ささら舞い」「会瀬ささら舞い」「水郷太鼓」「御着船祭」

鹿島神宮の武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」の御神誉(ごしんよ)が無事、安寧(あんねい)にもどって来られました。陸の上・水の上、合わせて15キロの旅、合計30キロにも及ぶ大行進でした。行宮御着與祭終了 鹿島神宮万歳! 企画  鹿島神宮

このお祭りを鹿島神宮のサイトから拝見すると、2600年以上前に武甕槌大神タケミカズチノオオカミ」をお祭りして鹿島神宮が建てられたこと、そして12年に一度そのお祭りが今日も続けられていることが記され、高天原の神々の賑やかなご様子が伝わってくるようでした。

そして当時の日本の国土は、北側は海が広がっており、鹿島の辺りは高台であったために、天孫降臨もイメージしやすくなります。

よくぞ、今日まで12年に一度の儀式として私たちに伝え残してくださったと感動の気持ちを抑えることができません。

田中教授の高天原は地上にあった。そして神々は、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社から船で天孫降臨し九州の鹿島の子供である鹿児島の天降川に舞い降りた。ということが理解できます。次号では、鹿島神宮の境内のご案内です。

写真:鹿島神宮

 

 

 


東国三社を歴訪する(2)国譲りと天孫降臨

今から1300年前に記された「古事記」と「日本書紀」、

「日本書紀」には、こんな物語が記されています。

日本にはかつて二つの国が存在していた。

1つはアマテラスをはじめ、多くの神々が棲む天井の世界「高天原」、もう1つはオオクニヌシが治める地上の世界「葦原中国(あしはらのなかつくに)」。

平和を謳歌していた2つの国だが、やがて大きな変化が訪れる。

天井の「高天原」が地上の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を平定するように動き出したのである。

高天原の神々はオオクニヌシのもとに舞い降りて、地上の国を自分たちに譲るように迫った。オオクニヌシはほとんど抵抗することもできないまま、地上の国を高天原に明け渡すこととなる。

この物語は国譲り神話と呼ばれています。
そして地上の支配権を手に入れた高天原の神々は次に大事業を行う事になります。

 

最高神やアマテラスの孫、その他高天原の多くの神々を天井から地上の「九州」に降り立たせたのです。

「天の神の孫が地上に降臨した」

その名の通り、この物語は「天孫降臨」と呼ばれます。

こうして高天原は地上の支配域を拡大させると、その後、高天原の直系の子孫である『神武天皇』が奈良の「ヤマト」で国家統一を果たし、紀元前660年、ついに日本は建国されたのでした。

このように、「国譲り」と「天孫降臨」の神話は、高天原の直系である「天皇家」の正当性を示す、とても大事な物語になっています。

 

天井に棲む高天原の神々による物語、「国譲り」と「天孫降臨」、「空想の世界」としか考えられない神話の物語は、いったい何を表していたのでしょうか?

そして、

「東国三社は『国譲り』や『天孫降臨』の出発点の場所である」

という田中英道氏の言葉の意味とはどういうことでしょうか?

田中教授はこう述べます。

「神話を解明するには、“神社”にもっと注目しなければいけません。神社は、古代の祖先たちが土地の記憶、伝承をもとにして建てたものであり、存在そのものが重要な意味をもっているのです。社殿の向きや鳥居の位置にも、何かしらの意図が隠されているのです。」  

 国譲りの神話ではこう記されています。

地上を治めていたオオクニヌシに、高天原の代表として、国譲りの交渉を迫ったのが、『鹿島神宮』の神。

その交渉に同行したのが、『香取神宮』の神。そして『船の神』として、この2神の御先導を務められたのが、『天の鳥船神(アメノトリフネノカミ)』という『息栖神社』の神なのです。

これらの神々は高天原の天空から、『船』で地上に舞い降りたと記されています。

そして、天空というのは東国三社のある場所「高天原」、現在の茨木県に当たります。

実際に鹿島神宮のすぐ近く、茨木県鹿島市に「高天原」という地名が残っています。

 

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社・・・

東国三社は、『国譲り』の神話と密接に関係していることが分かりました。

神話が現実味を帯びてきて面白くなってきましたね。

次回は天孫降臨についてもう少し調べてみたいと思います。

東北大学 名誉教授田中英道氏

ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。「西洋美術史の第一人者」と呼ばれている。                                                         24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けている。                                                                  中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における“世界的権威”と評される。 西洋美術研究の折、作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までも読み取る、「形象学(フォルモロジー)」という独特の学問手法を体得。                                                          日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいない現状に危機感を抱き、以来西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。                                                     「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けている。その数は膨大で、著書は合計95冊、主な研究論文は147本以上にものぼる。


東国三社を歴訪する(1)東国三社と鳥居

 

   鹿島神宮

  香取神宮

  息栖神社

東国三社とは

茨木県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮、茨木県神栖市の息栖神社の三社のことです。

この三社には不思議な「鳥居」があることに気付かれることでしょう。

まず初めに、その鳥居に注目してみたいと思います。

鳥居は外側から一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居という順に数えられ、「一の鳥居」といえば、神社区域の入り口付近に建てられているのが一般的です。

ところが東国三社の「一の鳥居」は、神社の境内から離れたところに存在し、三社とも川や湖のすぐ前に建てられています。

それは鹿島神宮「西の一の鳥居」、香取神宮「一の鳥居」、息栖神社「一の鳥居」

  鹿島神宮「西の一の鳥居」

香取神宮(一の鳥居)

息栖神社(一の鳥居)

   息栖神社(一の鳥居)

 

 

それぞれ「一の鳥居」がなぜか川や湖など、水辺に面して建てられているのです。

不思議だと思ったことはありませんか?

一体、何故、こんなところに建てられたのでしょうか?

「これらの鳥居の位置こそが、神話を読み解くうえで非常に重要な意味を持つのです。」

こう唱える学者が、今回ご紹介したい田中英道師です。

 

田中英道師はこのように言われます。

 

「この東国三社がある場所は、神話で描かれる『国譲り』や『天孫降臨』の出発点となった場所なのです」と。

 

それは一体どういうことなのでしょうか?

これから、徐々に田中英道師の提唱するこの謎を解いていきたいと思います。

その前に、

東国三社の近辺には、はるか昔「香取海(かとりのうみ)」という巨大な内海が広がっていました。

東国三社は、ちょうどその海の「入り口」に位置しており、鹿島・香取神宮は、まさに航路の出発点であり、息栖神社も「船着き場」であったとされるのです。

 

 

何となく謎が解けそうな気がしませんか?

では、次回は天孫降臨について調べてみましょう。お楽しみに。

 

 

〜文化遺産を読み解けば、真実の歴史が見える〜

田中教授は、ボローニャ大学・ローマ大学客員教授、国際美術史学会副会長、東北大学名誉教授を歴任。

「西洋美術史の第一人者」と呼ばれています。

 

24才から単身留学。当時は留学すら珍しい時代から、「ルネサンス」発祥の地イタリア、世界最先端の芸術大国フランス、世界有数の文化国家ドイツなど、これら西洋文化の中心地を渡り歩き、研究に没頭。以来50年以上、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、フェルメールなど… 数多くの有名美術家に関する国際的な新説・新発見を次々と発表し、今なお、美術研究の第一線で活躍し続けています。

 

中でも、フランス語や英語で書いた論文は一流学者が引用する国際的な文献になるなど、イタリア・フランス美術史研究における”世界的権威”です。

 

そんな田中教授は、西洋美術研究の折、ある独特の学問手法を体得しました。それが、形象学(フォルモロジー)です。作品の表情や手足の動き、モノの形や模様などから、芸術家のもつ思想や哲学、文化や宗教的背景までをも読み取るもので、その観点から日本美術を見た時に日本の素晴らしさに気付いたと言います。

 

でも、その一方、日本では優れた文化作品が正しく評価されておらず、さらには文化的な要素が歴史の中で飾り物になっていること、本格的な解読や研究が全く進んでいないことに愕然としたそうです。

 

その実態に危機感を抱き、田中教授は西洋中心だった研究活動を日本中心に転換。「日本国史学会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の代表を務め、文献が無ければ真実を見抜くことができない歴史学者に代わり、人類が残してきた様々な文化遺産を紐解き、正しい真実の歴史を日本国民の元へ届ける活動を続けています。

 

 

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