大和と日高見国を繋げる重要な神社・春日大社と神鹿

 

春日大社にやってきました。ここは春日大社の第一の鳥居です。大和と日高見国を繋げる重要な神社です。境内にいる沢山の鹿たちは鹿島神宮から連れてきたと春日曼荼羅に記されております。

 

 

天の原 ふりさけみれば春日なる
             三笠の山にいでし月かも       阿倍仲麻呂

 

遣唐使として唐に留学した阿倍仲麻呂は認められ、唐で科挙に合格し、高官に登りますが、望郷の念が強く、帰国します。しかしその途中、船が難破し、東南アジアの方に流されてしまいます。日本への帰国は果たせず、唐で客死します。その時に歌った歌とのことです。有名なこの歌は、百人一首に選ばれ「今昔物語」や「古今和歌集」に採録されています。

この歌は望郷の歌で、正にこの春日大社を思い起こされて歌ったと言われています。ここは大和の現況であり、「天の原」とは高天原のことで、それは関東東北のことです。そこから来た人たちが鹿島から鹿児島に行き、東征して大和にやってきたという物語をこの歌で思い起こすことが出来ます。東と西を結び付ける要となる大社であることでも重要です。そして興福寺も同時に藤原氏のお寺であり、この二つが東大寺を生み出し、奈良の大和の文化を生み出す非常に重要な神社になるのです。

阿倍仲麻呂が詠う三笠の山も、この地から山を信仰している場所でもあったと伺われます。   その三笠の山が一番東で太陽が昇る所でありました。それが大倭日高見国、この二つの国を結びつけ、そして高天原も阿倍仲麻呂が最初の「天の原」と詠っているのです。そういう意味でその重要性を再認識させられますとのことです。

この建築も大変優れております。これは江戸時代に、徳川がお金を出して造られたと言われています。江戸時代に、日本の都が関東に造られたということによって、かつての日高見国、高天原の地域に徳川が幕府を造ったということになります。そのことが立派な神殿の建築にも表れております。

それ以後も栄えているわけですが、最近、藤原氏のことをあまりよく言わなくなってきた傾向があります。藤原氏は祭祀をやられた家系であり、天皇を常に守るという立場で、藤原不比等も聖武天皇、光明皇后が天皇家としっかりと結びついております。それを権力者の野心のようなことを言われてきましたが、そうではなく、日本という国は役割分担の国であり、天皇を守る役割を持っていた藤原氏がずーッと現代まで、近衛文麿が三回も首相になられたわけです。ある時は戦争責任など非難されましたが、しっかりと藤原氏の役割を演じていると田中教授は見ておられます。

現在、戦後に生きる人々があまりにも藤原氏を批判し、つまり権力批判として逆に非難される時代にもなってきました。記紀にも、藤原不比等(ふひと)が、勿論天武天皇が主宰されたわけですが、それをよく解読してみると、非常に客観的に記されており、自分たちの権力を裏付けるために勝手に作った云々など戦後の考え方ではない非常な緻密さがあるとして、田中教授はレヴィ=ストロースの考え方と一致しておられるようです。(下記参照)

衛文麿
総理大臣を三度務めた(第34代、38代、39代)他、各大臣職などを歴任した。近衛家は藤原忠道の子基実を始祖とする五摂家の一つ。江戸時代初期に後継が居らず、後、陽成天皇の第四皇子が養子となり近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫に当たる。

藤原不比等
史(ふひと)とも書く。天智天皇から藤原の姓を賜った中臣鎌足(藤原鎌足)の子。文武天皇の時代(698年)には、不比等の子孫のみが太政官(最高国家機関)の官職に就くことが出来ることとなり、元の姓である中臣氏の一族は神祇官として祭祀を受け持った。

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)
フランスの文化人類学者。「私が人類学者として賞賛してきたのは、日本がその最も近代的な表現においても、最も遠い過去との連携を内に秘めているということです。」と述べている。

春日大社の神殿の前におります。田中教授は奈良で一番重要な神社は春日大社であるとのこと。

春日大社は藤原氏の主宰するところであり、藤原氏が中臣氏と言って、関東では有名な鹿島神宮の重要な祭祀を司る社なのです。

春日大社をみると、藤原氏と当時の天皇の関係とか、興福寺との関係(神仏習合の)関係を藤原氏が成し遂げたことでもあります。そしてそこで奈良の大仏が造られ、これこそが聖武天皇の鎮護国家として作り上げた大きな証拠でもあります。それにより国分寺が日本中に建造され、仏教と天皇ご自体が祭祀様であられるわけで、こういう神仏習合の国が出来たということです。聖武天皇の「聖」は聖徳太子の「聖」でもあります。

聖徳太子がまず提言され、奈良時代に律令国家として、大宝律令をはじめ、しっかりとした国が造られていきます。それを成し遂げたのが藤原鎌足(中臣 鎌足)、天智天皇、天武天皇そして聖武天皇と藤原不比等です。

以上のことから、ここは歴史的にも重要な大社で、奈良に来るたびに訪れますが、やはり若い人が、単なる信仰だけではなく、歴史を知る上でもこの日本の重要な神社や興福寺共々訪れて欲しい、と同時に、自然環境がこれほど保たれているのも珍しく、興福寺と春日大社の、この空間というのは現代でも稀な自然の調和が保たれております。若草山が信仰の対象であったと言われますが、自然というのは人間と一体となって初めて保たれるわけで、日本が一番自然を大事にしていると言われますが、この地を見ればよく分かります。

鹿を始め様々な動物と共に生きるという環境が、これこそ日本なのですね。

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

奈良に来たら、必ずこの春日大社と興福寺に来て歴史を感じていただきたく、そういう意味でも重要な大社とお寺です。

 

 

 

鹿島神宮の鹿をここに連れてきたことも、そしてまたここが鹿の神社になるということも鹿島神宮は武御雷神が主祭神だからです。

 

 

 

                                 👆 鹿島神宮 👆

茨木県鹿嶋市にある神武天皇元年(紀元前660年)創建の神社です。国譲りを成し遂げ、葦原中国(日本)を最初に平定した軍神武御雷神(たけみかづちのかみ)を祭神とします。日本における支配層の最大氏族である藤原氏の氏神です。武御雷神とともに国譲りを成し遂げた経津主神(ふつぬしのかみ)は千葉県香取市の香取神宮に鎮座しています。藤原永手(ふじわら の ながて)は伸護景雲(じんごけいうん)2年(768年)、称徳天皇の勅命により鹿島神宮を勧請して奈良に春日大社を創建しました。 神社の格式を定めた「延喜式」(927年)では、伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみが神宮と表記されました。

春日大社の鹿の園

縄文弥生が長く続き、様々な動物と生きる、これが日本です。ここは鹿のいる大社として有名ですが、武御雷神が白い鹿に乗ってここにやってきたという伝説があります。それは縄文・弥生の時代が長く続き、東北が中心になっておりました。人口も圧倒的に多く、埴輪の数からも分かります。その人たちがだんだんと西に注目していきます。それは大陸が日本に対し、危険な様相を帯びてくる・・・清の始皇帝が中国を統一し、日本にいつ攻めてくるか分からないという状況など、日本を守る必要性を感じ、剣の強い武神の神、武御雷神が、鹿に乗ってやってきたということが、奈良を日本の中心として守るという意味合いがあるのです。

現実的には関東東北の神たちが関西・九州まで守るという形になっていきます。これが万葉集にも語られるわけで、また武御雷神が鹿に乗ってやってくるという意味が物語っていることも忘れてはいけませんとの解説です。

 

「神鹿」としての歴史のはじまり

奈良の鹿。その歴史的なルーツは奈良時代、710年(和銅3年)に武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様が御蓋山(春日山)の山頂に降り立った際に「白鹿」に乗ってやってきたという神話を起源とするとされています。

一方、奈良時代の万葉集でごく自然に詠われているように、奈良時代の「鹿」はまだ「神鹿」としての扱いを受けていたとは言えません。「神鹿」として本格的に扱われるようになるのは、神話の発信地とも言える「春日大社」が発展・繁栄するようになってからでした。

平安時代になると、京都に都が遷ってしまったので一見奈良のお寺は大ダメージを受ける所も多かったのですが、春日大社という神社は、そもそも「藤原氏」の「氏神」様として成立したという歴史も持っていましたので、藤原氏が京の都で絶大な権勢を誇るようになる中で春日大社の存在も重視されることになり、奈良の寺社の中では例外的に「平安時代にもっとも繁栄した」神社となっているわけなのです。春日大社は天皇の使いである「勅使」が訪れて祭事を行うなど国家的にも重要なお寺として地位を高め、当時の日本を代表する神社へと成長することになりました。

神社が繁栄すればするほど、「創建神話」というものの存在感・重要性も同時に高まっていきますので、「神鹿」としての信仰は、春日大社が発展した平安時代に強化され、次第に奈良の人々に浸透することになりました。平安時代前半の841年(承和8年)には、神鹿が降り立った春日山一帯の伐採・狩猟などが禁じられるようになるなど、具体的な「自然保護」の枠組みも登場します。「鹿の保護」についての平安時代以前の史料は乏しいのが実情ですが、このような時期から既に「神鹿」を保護するようになっていたと考えることができるでしょう。(奈良市内名鑑より)

 

次は世界遺産になった「応神天皇陵」です。お楽しみに