日本建国の地・橿原神宮

明治時代、この地に神宮創建をという請願が民間有志より出され、明治天皇はこれを深くほめたたえられ、京都御所の賢所と神嘉殿を下げ渡され1890年(明治23年)4月2日、官幣大社・橿原神宮として創建されました。

 

 日本最古の歴史書『日本書紀』では、辛酉年(かのととりのとし)の春正月庚辰朔(かのえたつさく)(1月1日)に、大和国の橿原宮(かしはらのみや:現在の奈良県橿原市 橿原神宮とされる)に即位したと記されております。

この日はグレゴリオ暦(現行暦)置き換えると、紀元前660年2月11日となります。そのため、2月11日が建国記念の日ということになります。

ここに一つの謎があります

人々の神武天皇への敬愛の念が神宮の由来ですが、神武天皇の東征の時期について田中教授は、歴史家として考えると、それは事実であることの他に、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)という天皇が二人居られることに、古事記・日本書紀の共通した記述があるとのことです。

<初代>                                   神武天皇の称号:始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)        <第10代>                                    崇神天皇の称号:御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)

この二柱の天皇との関係を考えますと、結局神武天皇が東征され、ここに来られた時、すでに饒速日命(にぎはやひのみこと)という天孫降臨された方が居られたということ、そして饒速日命から譲られたということ、更には長髄彦(ナガスネヒコ)という別の配下がおり、その方が抵抗されたのを、饒速日命によって殺されたという話が記されております。

このような話との結びつきを考察しますと、饒速日命がまずここに居られたということになります。紀元前660年ごろの遺跡を見ると確かにそれが証明され、この辺りには沢山の遺跡があり、従ってここで都をお造りになった可能性があり、更にそれが九代続き、そこに崇神天皇が、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)という名前で呼ばれていたというわけです。

更に面白いことには、崇神天皇の記録が書かれておりません。                       そしてまた神武天皇の方は後歴が書かれていないのです。

つまりお着きになられた当地のことが書かれておらず、神武天皇のことが書物を読んでも出てこないのです。そこで、神武天皇と崇神天皇が同一人物ではないかという考え方が成り立ちますが、恐らく田中教授もそのように考えられておられます。

紀元後二世紀前後お着きになり、纏向遺跡のある所で都をお造りになったと。従ってこの橿原神宮は饒速日命が居られたことと重なります。が、今はここが建国記念日として祭られているということは、非常に良いことで、我々民族の記憶は、このような現実の神宮で毎年建国記念日が行われている事態を有意義なことだと考えますとのことです。

 

畝傍山 (うねびやま)

標高200m、大和三山(天香久山、耳成山、畝傍山)のひとつ。畝傍山の麓に初代神武天皇の宮、畝傍橿原宮がありました。

ここは大和三山の一番重要な山で、紀元前660年、2682年(今年2022年)古い天皇の歴史を畝傍の山が物語っています。

この頃は古墳が造られなかった時代の、縄文時代になります。弥生は紀元前1000年頃の弥生時代、現実の歴史の年代と神話の古事記や日本書紀の期日とはどういうふうに重なり合うか考えますと、神武天皇の東遷、あるいは邇邇芸命の、天孫降臨されて三代目であられることも、本当に現実であったことと思っております。と田中教授は仰っておられます。

饒速日命(にぎはやひのみこと)と邇邇芸命(ににぎのみこと)が兄弟、あるいは場合によっては同一人物ではとも考えられます。と・・。

 

次回は天地開闢から神武天皇までを振り返ってみましょう。お楽しみに❣