平氏が源氏に敗れた理由?

世界最大の木造建築「東大寺大仏殿」

東大寺創建当初のレプリカ

1910年、ロンドンで開かれた日英博覧会に出展した東大寺創建当初のレプリカ(複製品)が展示されています。これは、東大寺創建当初の50分の1に縮尺されたものです。

このレプリカを見る限り、大仏殿の両脇には、今は存在しない7重の塔が建っていたことが分かります。当時はこれだけのものを建設する情熱と財力がありました。渡来人・秦氏の財力を使って造られたという説もあります。

これほど巨大な大仏殿は何といっても日本しかありません。世界一と言っても1.5倍から3分の2に縮小されてしまいましたが、それでも未だに世界一です。天平時代の日本人の壮大な心を感じさせられます。

聖武天皇が752年に開眼式を行った時に一万人以上の人が集まり、祝ったということです。

聖武天皇曰く、「この仏像が倒れたら国家が倒れる」。しかし2度も倒れてしまいました。                それは平重衡が源平の戦いの中で奈良までやって来て燃やしてしまったのです。平家がそれ以後立ち直れなかったのはこのせいであります。それにより源氏がこれを大事にすることで、頼朝と鎌倉幕府が征夷大将軍になり、東大寺復興の中心となって尽力し、落城供養にも上洛されております。

大仏が中心的な役割を常に演じております。今はこのように言う歴史家が少なくなってしまい、この大事さを忘れてしまっておりますが、とんでもないことです。未だにこれだけの多くの人が日本にやってくるということは奈良の大仏を見なくてはいけないという気持ちが大事なことで、造形の中に形として日本の象徴があるのですと、田中教授は解説されます。

平安時代編さんの「東大寺要録」や「朝野群載」などによると、東大寺には8世紀半ば、
100メートル級の大型の東塔と西塔が建てられていたそうです。

ところが平安中期に西塔を焼失し、その後1180年には、平清盛が五男の重衡に源氏と連携し始めた南都の追討を命じ、焼き打ちで東塔も焼失してしまいました。

鎌倉時代に高僧・重源によって東塔が13世紀に完成しましたが、再度落雷で焼失してしまいました。

次は古墳時代から仏教伝来 (ヤマト王権繁栄編)をまとめてみましょう。