初代天皇の墓「奈良の箸墓古墳」

日本初の巨大古墳「箸墓古墳」

箸墓古墳は奈良県桜井市箸中にある最古級の前円後方墳(前方後方墳) 3世紀初頭に造られたもので、墳丘長278m、高さ30m。奈良にある古墳時代前期初頭の大和(おおやまと)古墳群の一つ、纏向古墳群を代表する古墳である。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の墓と定めている。田中教授は第10代崇神天皇の墓であるとの見解を示しています。                                           

  

 

 

箸墓古墳の名前は第7代天皇の皇女の悲劇的な話の印象が強く名付けられましたが、実際は崇神天皇のお墓と田中教授はみておられます。

戦後になり、これが前述の女性の墓と関連付けられ、卑弥呼のお墓ではないかと言われ始めました。しかし、邪馬台国は北九州説が強いわけです。箸墓古墳説と北九州説が主張し合って未だに決着がつかないと言っていますが、実際は最初から決着はついているのです。

何故ならば、魏志倭人伝は3世紀末、西普(中国)で書かれた歴史書『三国志』の日本に関する記述部分のことで、邪馬台国と卑弥呼に関する記述があります。魏志倭人伝は邪馬台国や卑弥呼の存在を主張する際の根拠となっていますが信憑性は乏しいのです。詳しくは「魏志倭人伝を疑う」として田中教授の書籍「邪馬台国は存在しなかった」をご覧になられてください。(勉誠出版 刊田中英道著)著者である陳寿は日本や朝鮮半島にも訪問したこともなく書かれている文献であるとのことです。

実際に古墳の前に来てみると、向こうに三輪山があり、大神神社(おおみわじんじゃ)があります。下の広々とした平野には新しい都を造ろうとした考えが連想できます。        三輪山や大神神社は想像を超える歴史があり、調べれば調べるほどその深さを思い知らされます。パワースポットは従来ならば聖地と呼ばれる場所で、長き時を経て積み重ねてきた不思議な力を感じずにはいられません。呼ばれないと登れない山と言われているそうです。三輪山に魅力を感じた方は、もしかすれば三輪山に呼ばれているのかもしれません。ぜひ一度足を運び、三輪山のパワーを授かってみてください。と[Tabiyori] より。

この箸墓古墳には一足先に天孫降臨された饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が長く住んでおられました。ここに神武天皇が東征され統治されたのに出会い、饒速日命に仕えていた長髄彦(ナガスネヒコガ)は、ここに饒速日命という立派な当主が居られるのに何故ここに来たのかと詰問します。神武天皇も饒速日命に何故天孫降臨された時に、ここに統治されたのかと問い質します。      お互いに三種の神器を持っているのか確かめ合います。

勿論、双方がきちっと持っています。ここでお互いに正統であることを認め合ったうえで、饒速日命が、神武天皇を新しい天皇(スメラミコト)であることを認め、譲ることになります。

一方、神武天皇に先立ち、天磐船に乗って天降りしてきた饒速日命を、長髄彦は主君と仰いで仕え、妹を后としたことで、神武天皇に敵対しました。そして更に抵抗を続けたために、前の当主、饒速日命が自ら、長髄彦を殺してしまいます。という物語があります。

そして新しい大和がここに形成されます。これが纏向遺跡と言われています。

この地形をよく見ますと、道路も皆、東を向いています。東から来た人たちが住み始めていると考えられます。正に三輪山が東なのです。前円後方墳の円の部分が東を向いています。

今まで、東から来たという人たちはあまり居りませんでした。九州に天孫降臨をした人たちが、日向から大和にやってきました。それが東征で、それ以前の人たちはもともと九州にいたのでは、という考え方が強いわけです。九州に来た人たちは、まさに関東から来た人たちであり、鹿島から鹿児島へという、鹿児島に入る川(天降川)に着くという物語が分るのです。

 

【天降川(あもりがわ)は、鹿児島県の中央を流れる二級河川。同県湧水町の国見岳に始まり、鹿児島湾(錦江湾)にそそぐ。鹿島を立った邇邇芸命率いる天孫降臨一行は海路を進み鹿児島湾に到着し、天降川から鹿児島に入った。その後、数代を経て日向(宮崎)に至る】

 

 

 

このことが大倭日高見国という日本の国の名前でした。倭は正にこの地(場所)ですが、大倭日高見国は今までどこであるかが分からなかったのです。この地も日は高く登りますが、ここは東国ではありません。東国こそ日高見国(日が高く昇るところ)であるという名前で、昔は東と西が日本にはもともとあり、西の方が外部からの人々が常に入ってくる、東が統治していくという過程が物語としてあると考えられますと。

これまでは多くの人が、日本は西だけという考え方で、朝鮮と日本だけで歴史が作られていました。縄文の時代が完全に東に多くの人口が、90%が今の名古屋、東海地方から関東、東北、北海道の南部までずっと一つの本州という名前で呼ばれていたのです。

それが日高見国であった。という考え方が正に大倭日高見国=日本という、日本の形成過程が分っていくのです。

石上神宮(いそのかみじんぐう)や春日大社は関東から来た人たちが、一番古い神社を造っているのです。それが大和の始まりと言えるのです。この山に囲まれたヤマトという意味がこの地から始まっていると言っても過言ではありません。

歴史というのは、これまでは邪馬台国はここであった、とか卑弥呼がいたのでは、とかがありますが、東海地方の半分以上は発掘された遺品で分かるのです。従って中国や朝鮮とも関係がなく、正に日本の日高見国、高天原からきた人々がここで住み始めたということが、もちろん鹿児島経由・九州経由でやってきたと言えるのです。そういう新しい考え方では日本は朝鮮から・・・という考え方は持たない方が良いのです。

日本は全ての国からユーラシア大陸を超えてやってきた人たちで、そして東から東南アジアを通って船で来た人たち、いろんな人たちがここに集まって日本という国が形成されていったのです。

日本に着くまでさまざまな努力をしてやってきたのです。なぜ日本に来るかというと、太陽が昇る国だからという強い憧れがあったからです。それがまたいろいろな意味で、日本がとこしえの国であるという考え方があるのです。

茨城の辺りは常陸、とこしえの国に皆がやって来て、それが寒冷化に伴って南下し始めたのです。また更に大陸の危険性をも感じて、日本を守ろうとする考えで、ここは周りが皆、山ですから好い環境でありました。

ここに前円後方墳を造る意義が出てきたのです。ここが首都であり、最初の天皇の墓を、崇神天皇がここでお眠りになっていると考えているのですと、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)は「天下を初めて治めた天皇」という意味です。 この「名」を持つのは神武天皇(初代)と崇神天皇(10代)。新しい国を創る・そこを統治される天皇・まさにそれが崇神天皇である。そのような仮説、ひとつの新しい考え方を持って新しい歴史を見直す、そういうことが今我々が、朝鮮からきた、中国から来たと今まで日本人の見方があまりにも狭すぎたと田中教授は考えておられるのです。

参考:神武天皇の真実 初代天皇は誰なのか?「古事記」「日本書紀」の記述をもとに最新の考古学の成果を踏まえ、導き出された結論とは 日本古代史最高の謎に迫る (扶桑社 刊、田中英道 著)

次回は崇神天皇陵「前方後円墳の謎」についてです。お楽しみに。