神武東征の出発地・宮崎神宮

ここは神武天皇が生まれ育ったところです。

この地で生まれ育った神武天皇を主祭神に、父である鸕鶿草葺不合尊 (ウガヤフキアワセズノミコト)、母である玉依姫尊(タマヨリヒメノミコト)が祭られています。

15歳で皇太子となられた神武天皇は、45歳の時、ここから東征に出発しました。
鹿児島神宮はお父様の山幸彦で、そのお子さんが磐余彦命(イワレヒコノミコト)と言います。

神武天皇の存在が戦後問われてきましたが、存在説を田中英道氏は認めておられます。

それは、ここに日向という処があります。日に向かって立つという意味で、それは神武東征という旅であります。神武天皇が居られたということは、お着きになった大和の橿原神宮や、畝傍山(うねびやま)近くに墓も宮もあったということも必ずしも言えないということで、神武天皇があたかも居られないということですが、やはりここから出られて第十代の崇神天皇、始馭天下之天皇 (ハツクニシラススメラノミコト)、神武天皇も「御肇国天皇(ハツクニシラススメラノミコト)」、字はちょっと違いますが、二人の天皇が同じ天皇であることを考えれば、ぴったりと合います。

 

神武天皇が都を造られた橿原神宮や畝傍山(うねびのやま)の近くは、最初の天皇と名付けてはおりませんが、天孫降臨された天皇といっても好い饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が居られました。これが紀元前660年という古い年限で、こんなに古い年代に神武天皇が居られたことがおかしいというのがこれまでの説でした。

始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)が、崇神天皇と合致するということで、そして欠史八代という第十代までの間の天皇が、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の王朝の天皇、あるいは皇命(スメラミコト)であったことと繋がります。

 

欠史八代

初代  神武天皇(紀元前660年)⇐饒速日命による最初の大和討伐
第二代 綏靖(すいぜい)天皇     
第三代・安寧(あんねい)天皇 饒速日命の討伐以降も日高見国(高天原)
第四代・懿徳(いとく)天皇       関東系の饒速日命系統による西国統治が 
第五代・孝昭(こうしょう)天皇 行われていた。         
第六代・孝安(こうあん)天皇
第七代・孝霊(こうれい)天皇
第八代・孝元(こうげん)天皇
第九代・開化(かいか)天皇   
第十代・崇神天皇(紀元後180年頃)→大和王朝成立。何かの理由により、                   再び神日本磐余彦天皇(神武天皇)によって二度目の大和討伐(東征)が行われた。

 

ここに、神武天皇が居られ、                     
また、塩土老翁 (シオツチノオジ)という重要なアドバイザーという方が居られ、「ここから東に行きなさい」と、そして「大和という処にいきなさい。饒速日命という方が居られる」と、そこに行くことが大和に東征される。そして饒速日命にお会いすることが目的でもあるということを塩土老翁が言われます。

それに従って行きますと、饒速日命と神武天皇が結びつきます。

大和に行きますと、饒速日命に長髄彦(ナガスネヒコ)という部下が抵抗します。後、饒速日命が長髄彦を殺してしまいます。そして磐余彦(イワレヒコ)が由緒正しい方だということで、饒速日命が引退されます。

このような話の辻褄が合う事で、神武天皇が居られたと考えます。そして崇神天皇と大和の場所で名前を変えられたか、あるいは統治を新たにされたと田中教授は考えておられます。

すると日本の神話というのは決して架空の話しではないと。

ということで神武天皇が45歳でお立ちになるまで(この年代も信じていいかとこれからの問題ですが)の磐余彦尊(イワレヒコノミコト)のお育ちになった宮崎神宮を観に行きましょう。

塩土老翁 (シオツチノオジ)という重要なアドバイザー

塩土老翁 (シオツチノオジ)は名前の「老翁」の部分からも想像できる通り、老人の姿であらわされる事が多い海の神で神話の中では見識を備え幅広い知識を持っている人生経験が豊かな神として描かれています。

また、シオツチノオジは宮城県の塩竈神社の祭神であり、この塩釜神社を本拠地として全国に分霊を祀る神社が広がっています。 シオツチノオジのエピソードの中で特に有名なものは「海幸彦・山幸彦」の物語の中で兄から借りた釣り針を無くして落ち込んでいる山幸彦に竹で編んだ小舟を与えて海神の産む海宮へと送り出したというものです。 結果、山幸彦は無事に兄の釣り針を持ち帰り、生涯の伴侶であるトヨタマヒメとも出会う事になります
出典 日本神話の世界

長髄彦(ながすねひこ)

長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する伝承上の人物。神武天皇に抵抗した大和の指導者の一人。神武天皇との戦い(神武東征)に敗れ、殺されました。
(ウイキペディアより)

古代船おきよ丸

 

神武天皇が宮崎の美々津港から東征に出発されたことから、この地は「日本海軍発祥の地」とされています。古代船おきよ丸は、「西都原古墳群から出土した埴輪を原型として復元されました。

全長12メートル。

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これこそが神武天皇が、日向から出発された船です。ここから九州各地、宇佐までも行かれ、そして福岡、地中海へ。相当長い旅ですが、一艘ではなく、天照、邇邇芸命、山幸彦、磐余彦、 天孫降臨をされて四代目ですが、

  邇邇芸命(ににぎのみこと)
  彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/山幸彦
  鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
  神武天皇(じんむてんのう)

高天原勢を引き連れて出発されたということです。この高天原勢というのは東北勢で、みな陽をいつも大事にする太陽の軍勢といっても好く、これが太陽に向かって出航する。そして長髄彦の勢に敗れて後退し、陽を背にして熊野の方に回り、大和を攻める長髄彦に対する戦いをずっと行っていました。             大和勢には饒速日命(ニギハヤノミコト)という天皇が居られます。        長髄彦という人物は、やはり饒速日命の謀反者でもあり、最後はやはり殺されます。長髄彦はある意味で謎の人物ですが、出雲勢だろうと思います。      出雲から降りて大和に移ってきた人たちと考えられます。

天孫降臨された証として、三種の神器を示すように言われ、長髄彦は納得はしますが、抵抗し続けました。

そして世代交代し、饒速日命による最初の大和討伐が行われ、交代していきました。その饒速日命が最初の紀元前660年の時代で合うということです。

こうして神武天皇が統治されて崇神天皇がそれを引き継ぐという形になります。

 

天孫降臨というのは、このような船に乗って降臨したということです。

鹿児島神宮は山幸彦の神宮ですが、天降川風景を前回ご覧に入れましたが、あそこに船でやってきたということが分かります。

あの時代は世界中が船で横行していたのです。船がその時代の交通手段でありました。

これだけ大きいので、沢山の人や荷物も載せて往来でき、船が大事な時代でありました。

何故 田んぼが祀られるのか!

今、宮崎神宮の拝殿の前におります。非常に厳かで緊張します。

神武天皇は127歳で崩御されたことについて、長寿が考えられないとして、存在を否定する説が戦後出てきました。

これはいろいろな考え方があり、ひとつには四季の中で、春夏と秋冬で二年という説。

あるいは中国の暦を基本にするのではなく日本的な年代があったのでは、主観的な心の年代として長老を感じさせるような表現、年代の格付けのようなものがあったのではないだろうか。所説ある中で

讖緯説・辛酉革命説とは中国の王朝革命に関する理論があります。

神武天皇が橿原に宮を構えて即位した際の記述を見ますと、

『日本書紀』

辛酉年かのととり 春正月庚辰朔。天皇、橿原宮に於いて即帝位す。是歳を天皇元年すめらみことはじめのとしと為す

このように神武天皇は辛酉の年に即位したと記述されています。

日本書紀が中国の思想に影響を受けていることは明らかであることから、日本書紀の定める神武天皇即位紀元を定めるにあたっては讖緯説(しんいせつ)を採用しているということが分かります。

加えて神武天皇が日向国(宮崎県)から大和を目指して東征を始めたのは甲寅の年であり、これも中国の思想の縁起のいい年をとっているということも根拠のひとつです。

と記されています。

田中教授は、心の年代としてそれだけ長く生きられた人こそ長老であり、その分だけ偉いのであり、年代の格付けのようなもの、神になるということでもあります。

15代16代までは非常に長い年齢でお隠れになっておられます。

大まかに言えば、今の年代も丁度合いますと仰って居られます。

いずれ、明らかになることでしょう。

しかし、長寿があり得ないとして存在を否定する考え方は論理から外れていることでしょう。

 

神武天皇はこの宮崎神宮から東征されて大和に行きます。それこそが関東東北の大地から狭い大和という盆地の中心に行くという意味がどういうことか、

それは大和という処は、周りがすべて海に囲まれています。だから山の人であります。

何故、そのような狭い所に行くのでしょうか?

新しい大陸に行く意味は、警戒心という帰化人たちの考えであります。塩土老翁 (シオツチノオジ)たちはどうやら帰化人であったと考えられます。

これからは世界から人々がやってくる。場合によっては軍勢でやってくる。

この地は関東東北よりも広く、階段もある、などの忠告があったと考えられます。

東征と言いながらも小さな盆地に都を造るために行くという試みをされておりました。これは智慧だと思います。

それ以後、日本が安泰になるわけです。

やはり、周りが山で囲まれており城塞ですね

町をすべて壁で囲むという概念が新しい帰化人がもたらした考え方だろうと思われます。それに碁盤の目の都市を造るなどは西洋的概念ですね。

そういうものを持ち込んだ帰化人たちがいて、それが天皇たちに協力された。そしてそれがまた日本である、と考えますと田中教授は語っておられます。

宮崎神宮境内にある御神田です。 

  

「何故田んぼが祀られるのか」

ここで稲作を行っています。

九州は櫻島もあり、阿蘇山もある火山地帯です。時には爆発も起こり、火山灰などの影響も強く受けます。

すると縄文遺跡も9000年~6500年前くらいで突然消えてしまいます。

ここ宮崎神宮は正に櫻島の火山のためにみんなが移動して逃げていきます。

 

これまで高天原が九州にあったということが定説のようになっていましたが、やはり無理がありました。優れた技術によって米作りや絹づくりなどのさまざまな農耕がなされるためには、水が必要であり、この九州の地では無理であるということが分かります。

櫻島の火山灰などの被害で稲作に適さない土地柄ということ、高天原はやはり関東にあったということになります。

しかしこれが全国に稲作が盛んになるための過程であるとみることもできます。とのことでした。

次は神武東征について記していきましょう。