「キリスト教を日本の中に」密かな試みがあったのでは!?

これだけ性格の異なる二つの民族が何故同化してしまうのだろうか。

これには歴史的事件として蘇我氏との問題がある。

平安時代に造られた士族の諸藩の中の1/3は秦氏系である。顔は全て日本人化しているが、それ以降を含めても諸藩の人々がユダヤ人系の血が入っていると言わざるを得ない。
従って、思想や思考形態、感性にどういう影響を与えてきたか、それが完全に日本化したというのは何かというと、それは蘇我氏が仏教を取り入れるということ自体の中にその問題が隠されている。

神道、仏教という問題

欽明天皇が6世紀の中頃、仏教を取り入れた時に仏像が入ってきた。
そのキラキラしさを取り入れてよいのか、これを拝んでもよいのかと蘇我氏と物部氏が正に対立をした。この物部氏がもうひとつの藤原氏(神道の祭祀を授かっていた)

また中臣氏と物部氏が組んでおり、これが正に高天原系の人々と言ってもよい。

鹿島神宮が中臣氏、香取神宮が物部氏、この二つの大きな氏族が、これが高天原あるいは日高見国を牛耳っていた。

一方、中臣氏というのは神道の祭祀、つまり神道の精神的な部分、今、鹿島神宮がその中心になっている。
物部氏は物、つまり物質的な事、中臣氏が精神的な事、”もののふ”ということもできる軍事的な事、もちろん中臣氏も武御雷神が守っている鹿島神宮も・・

この二つの対照的な神様の存在が日本の神道あるいは日本のこれまでずっと続く縄文時代の長い間、この二つの神が守ってきたということがある。

それが神話により記され、日本書紀・古事記両方に記されたが日本書紀が主流であった。
日本書紀には日高見国という名前が出てくるが、高天原は2回しか出てこない。
一方、古事記の方は「高天原」という言葉を最初から使っている。これにより、日高見国があたかもないかのようになってしまったが、それは縄文時代のあり方を見ても、東国抜きの縄文時代はあり得ないわけですから、当然そこに高天原・日高見国が重なってくる。

 

そこに物部氏と蘇我氏の対決になった。中臣氏と秦氏が隠れ、蘇我氏と物部氏の戦いになります。

蘇我氏は崇神天皇を立てますが、天皇はもともと神道ですから、必ずしも蘇我氏の言うとおりにはならず、結果的に殺してしまうということになります。

それ以降、女性の推古天皇が 蘇我氏が戦争を仕掛けて
その時聖徳太子が蘇我氏の側に付きます。その時の形は、仏教を蘇我氏が入れるということで、仏像を治めた方が蘇我氏である。

蘇我氏とは何者かというと、聖徳太子の名前が厩戸皇子(うまやどのおうじ)で、
厩戸で生まれたと言いうことは、これはイエスキリストのことである。・・
また蘇我氏とい名前を読むと「我蘇る」 厩戸皇子が生まれて十字架にかけられ、お亡くなりになった時に三日後に蘇ってくる。つまり復活するのである。

もうひとつは救世観音、お釈迦様もそうですが、世を救うというのもキリストの概念で、この時代の仏像を見ていくと、背が高く、鼻が非常に高い。これは止利仏師によって造られていることになるが、この止利仏師の止利も朝鮮から来ている。
この時代の朝鮮も秦氏がたくさん入ってきている。新羅、百済など、(新羅の新も秦氏の秦(しん)である。

新天皇が崩御された時に葬式をやっていない。天皇がお亡くなりになった時には長い殯(もがり)というお葬式を行う。聖徳太子がお亡くなりになった時に殯をやっていない。
622年(お亡くなりになった年=推古天皇の時代)、その後聖徳太子の一族がすべて殺されるという事件が起こった。聖徳太子は推古天皇が崩御されたあとは変わるべく王子であった。推古天皇は629年まで生きられましたが、早くも622年に暗殺されたのではないかと思われます。

すると問題は複雑化する。
一つは仏教で何故、律しようとしたのか? これまでは同じ考え方なのであまり問題にしなかったが、何故殺された(自害)のか?
聖徳太子一家が根絶やしにされるということで、仏教も根絶やしにされるのではないかと・・
蘇我氏がある種ではキリスト教にしたかったのではないか?という、厩戸皇子の言葉などに考えられる。仏教を指示していると言いながらもキリスト教を日本の中に密かな試みがあったのではないか!?を、考えられる。

仏教でしたら、秦氏と、聖徳太子と組んでやれるわけですが、日本の場合、神仏習合というのがある意味常識であり、それ以後はずっと共に存在するわけですが、それは可能でした。

ところが仏教の方を捨てるということと、キリスト教を取り入れる事、すると救世観音の意味が分かってくる。

つまり、蘇我氏が建てた飛鳥寺の観音像が少々救世像に似ており、キリスト像に見立てることも可能である。 救世観音と言われる聖徳太子の像もキリストの像に似ていないとも言えない。
飛鳥寺の救世観音は非常に鼻も高く、そういう陰謀があったからこそ、そしてそれを察知できたから中臣氏、藤原氏であった。
天皇の前で、四代目の蘇我氏の中心人物が天皇の許可を得ずに位を得るなど、とんでもない人物であった。それを中臣鎌足と中大兄皇子が組んで天皇の前で首を斬った。【乙巳の変】

ここにも一つのストーリーがあり、蘇我氏の中の裏切り者が詔を読むと、手が震え、何故かと聞くと「天皇の前で私は恐縮している」と

乙巳(いっし)の変

大化元年(645年)、中大兄皇子’(なかのおおえのおうじ)後の天智天皇となかとみのかまたり(中臣鎌足)が蘇我氏宗家を滅ぼして新政権を樹立した政変。

 

この後、蘇我氏が根絶やしにされた。
つまり復讐され、明らかに蘇我氏が断絶する。43年に蘇我氏が聖徳太子一家を殺すときに秦河勝は逃げている。

 

キリスト教を持ってきてはいけない。ということと完全に神仏習合という形が大事だということがわかる。

日本にあった形で神道と宗教が合った形を秦氏がやることにより、秦氏はそれ以後もたくさんの神社や仏閣を造っていくことになります。

このようにして
ユダヤ人たちが一神教を捨てる事、キリスト教さえ蘇我氏により断絶することによりはじめて秦氏系が日本の中に長く貢献していく形になります。
それ以後、日本がユダヤ人によって、もちろん縄文以後の勤勉なそして誠実な天皇を中心とした国家を守る、そういう中に秦氏が組み入れられていくこのになります。

歴史をずっと考えていくと、大東亜戦争、第2次大戦までずっと続いているような気がします。と、田中教授の歴史観を記させていただきました。