天孫降臨の真実

    

「高天原から地上に降りてきた」という天孫降臨とは、八世紀の始めに、古事記や日本書紀を書いた人たちは、「日高見国」を「高天原」と呼んでいました。
「高天原」という名を付けたために、天孫降臨という言葉を使ってしまうことになったのです。

それは「鹿島から鹿児島へ」、つまり縄文時代は関東東北に沢山の人が住んでいた日高見国「鹿島」、そこの人たちが九州の「鹿児島」にやってきたのです。

そこで倭(やまと)を抑えるために、神武天皇が東征を行います。その時に一緒に来た人たちが隼人(はやと)なのです

隼(はやぶさ)とは鳥ですね。つまり、「鳥のように船で行く」という意味です。 当時は徒歩や馬よりもはるかに速い乗り物でした。しかも荷物や武器を持っていくこともできます。それが得意だったのが「隼」つまり「隼人」たちでした。     

しかもこの人たちは関東の人たちなのです。

古代、アフリカから来た人たちは船で来た人たちが多く、着いた場所が、太陽が昇る地であり、これこそが日高見国、今の高天原という地なのです。

しかしそこに着いた人たちは、西半分を統治することができなかったので、天孫降臨をして統治することになります。

この場合、神武天皇が、九州から東征して大和に行くという時でしたから、そこに着いていたのが隼人です。

また熊曾(くまそ)という人たちがおり、北方の熊ですから、一緒に付いてきた人たちを、九州の人たちが、隼人と区別して別称的に呼びました。

という訳で「隼人」は原住民ではなく、関東から九州に来た人たちであり、そして倭(やまと)へという道順をとっているのです。

天孫降臨の人たちは、「天降川」という川を船で九州の鹿児島に着いたという、正に天孫降臨の土地なのです。

この地は、日本を東征した人たちで、その中に残った人たちが隼人と熊襲ということになります。この記事は、田中英道師の研究を記しています。

今からちょうど1300年前の時代は、隼人と熊襲という九州に残った関東の人たちが少し取り残されたわけです。その人たちがある意味で反乱したということになります。しかしすぐに沈静してしまうのは、やはり同じ日本人だったからでしょう、と。

天降川 (あもりがわ) について

 

鹿児島県の中央を流れ
る二級河川。同県湧水町の国見岳に始まり、鹿児島湾(錦江湾)に注ぐ。

鹿島を立った邇邇芸命率いる天孫降臨一行は、海路を進み鹿児島湾に到着、天降川から鹿児島に入った。その後数代を経て宮崎に至る。

この川は鹿児島湾に向かい、桜島が見えます。

この天降川は現地の人は「あもりがわ」と呼んでいますが、田中教授は、本来は「あめふりがわ」と読むのが本当であると言います。何故ならば、「天(あま)」は「海」という意味でもあり、天孫降臨の「天」でもあります。天孫降臨がなぜここに関係があるかというと、鹿島から鹿児島へ海を辿りながら船でここにやってきた。恐らくそこに猿田毘古神(さるたびこのかみ)という神が導いたと言われますが、邇邇芸命(ににぎのみこと)という高天原の神と称している有能な政治家だったと思われます。それが船団を組んで、後に言われる多くの藤原氏、中臣氏、物部氏たちを全部連れて一気にここまでやってきた。 それが鳥のように非常に早く来たものですから、隼と言われた人たちなのです。 後に「鹿島から鹿島立ち」が習慣となるわけですが、関東から出発するという意味があるのです。その船団がこの鹿児島まで来たということなのです・・と。

さらに「鹿児島」という地名ですが、現地の人たちは、その地名の由来が分からないようです。

鹿児島とは、「鹿島の子」であるという意味です。               鹿島を立ち、鹿児島までやってくるということを土地の人も忘れてしまっている。しかし誰かが「鹿児島県」と名付けた時に、関東から鹿児島に船でやってきたことを知っていたに違いない。                         更に、河川が非常にゆったりとしており、多くの船の往来が、川の規模から見ても可能であることが分かると思います。

このように地名としても、歴史が残っていることは大事なことであり、ここに来た甲斐があるということです。

「あもりがわ」と読んでしまうと、それが分からなくなってしまい、歴史が消えてしまうことになります。田中教授の先祖が、この隼人に生まれ育った人であり、更に鹿児島神宮の宮司でもあるということから、歴史を感慨深く皆さんと共に楽しむことができましたとのご感想です。

従って、高天原の人たちがここにやってきたので、天降川(あめふりがわ)と呼ぶのが正しいのです。この意味がよく分からなかったので、「あもりがわ」と呼んでしまわれたのでしょう・・・と田中教授は語ります。

 

猿田毘古神(さるたびこのかみ)

邇邇芸命が高天原から地上に天降ろうと思し召すと、天之八俣(天と地の間にある方々への別れ道)に、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がありました。

天照大神と高木神は天宇受売神(あめのうずめのかみ)に「おまえはかよわい女であるが、神と向かい合った時に、気後れしない神である。だから、お前が行って、『我が御子が天降ろうとする道に、そのようにいるのは誰か』と尋ねなさい」と命ぜられました。天宇受売神は、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、艶やかな踊りを踊った神です。

そこで天宇受売神がそのように尋ねると、『私は国つ神、名は猿田毘古の神です。ここにいる理由は、天つ神御子が天降りなさると聞き付けたので、先導させていただこうと思い、ここへ参上し、待っていました。』≪現代語 古事記(学研刊、竹田恒泰 著147頁より)≫

 

 

神武東征とは、神武天皇が日向国(現在の宮崎県)を出発し、大和(奈良)で朝廷を築くまでの物語です。

神武東征は、次の3つに大きく分けることができます。

.日向国(宮崎)~熊野村(和歌山)
.熊野村(和歌山)~阿陀(奈良)
.宇陀(奈良)~橿原(奈良)

神武東征で、神武天皇は、兄3人と別れがあり、助力を得て熊野・吉野の山間部を抜け、最後に奈良で豪族を倒しながら、都を開きます。

次回は「山幸彦と海幸彦との諍い」で有名な鹿児島神宮に行ってみましょう。

お楽しみに😊