東大寺盧舎那仏像

         世界が注目した神道x仏教のブロンズ像

聖武天皇によって建てられた国分寺の中の一番重要な東大寺の大仏です。
残念ながら2度も焼失しましたが、今あるのは1700年頃の作品です。しかし大きさと重量感はまだまだ支えられ、多くの観光客に身守られています。

東大寺盧舎那仏の造像、大仏殿建立の指揮をとった仏師・国中連公磨呂(くになかのむらじきみまろ)のこの作品は、複雑な青銅の技術であり、まずは粘土で造り、それをぴったりとした枠組みで包み、その後、粘土の表面を削り、そこに青銅のどろどろとした液体を流し込み、固めたものがブロンズ。それが天平の大仏で、約16メートルもある高さのものは世界でも、ギリシャにもありませんでした。この技術を習得したのは、やはり帰化人の集団と思われます。公磨自身も帰化人の3代目なのです。

帰化人と言っても日本人の一部ですから、当時、奈良には3人に一人(2人に一人?)は帰化人と言う考え方も成り立ちます。元来日本人はアフリカから出発して辿り着いた人たちですので、すべてが帰化人と言っても好いくらいで、この風土がたちまちにして日本人になってしまうことが日本の凄さなのです。決して断崖に造る中国の建築とは比較にはなりません。

752年、この大仏の開眼式が行われました。1万人以上の人が集まり、菩提僊那(ぼだいせんな)と言うインド人の僧侶が取り仕切ったのです。元来は聖武天皇ご自身が務められるのですが、それだけインドの僧を尊敬されていたということでもあり国際的でもあったのです。更にこの開眼式には最大な催しものが行われたのです。国際色豊かな盛大なるものであったということが記録でも分かります。

これは華厳経というお経に基づいているとはいえ、聖武天皇自身が神道と関係ないように見えますが、アマテラスという存在が大日如来、盧舎那仏と同化して太陽の意味合いを持っています。

更に神道の宇佐神宮の、み使いが来て、その一行が大仏を造ることを促進したことも、神が守っているということです。そういう意味で神仏習合ということでもありました。

聖武天皇(45代天皇)ご自身は出家をされましたが、同時に天皇でもありました。従って自らが神仏習合(神仏混淆しんぶつこんこう)の考え方を身に付けられたのです。これは共同体の神道と仏教と言う個人宗教、そこにもうひとつ法相宗という考え方があり、それがミュージアムでみた仏像にも影響していると思います。

つまり、個々人の感情・感性を大事にしているわけです。そのような仏教が国家の共同体と共にあるのです。華厳経と言うのはそれにふさわしい宗教であるのです。
どこにでも光があたり、小さな部分にもすべてに当たるということをお経で述べております。

仏の「け」というのは形のことで、「ほと」がブッタです。鎌倉時代にこの像を見て自分が仏教徒になろうという決意を書いたという文章がたくさんあります。仏を見て拝みながら自分が仏の道を歩もうとする。決して形式的にブッタの代わりに在るというものではないのです。全ての仏教が結集してこの仏像が出来たということです。

仏師の役割も大きく、いかに立派なものを造るかということです。そういう意味で仏師・国中連公磨呂や彫師や色彩もすべてが重要な関係性を持っているのです。

田中英道師の解説です。