「なぜ霧島神宮が造られたのか」と言いますと
邇邇芸命が天孫降臨されて、この霧島神宮で降りられた、という神話を題材にして造られたからということです。
しかし、もともとは天照が、国津神に統治するために邇邇芸命がまず、高い所から降りるということで、ここにやってきたのです。
元来の歴史は鹿島から鹿児島へ海を渡ってきたことが考えられますが、神話に基づいて高い所に下りたと想定し、この霧島神宮は神話を重視して造られたと言えます。
この素晴らしい建築は、薩摩藩の島津久光公が江戸時代に造りました。 島津公がいかに豊かであったかということが分かります。
建築が新しいのは、高天原がまだ不確定で、九州の上の方にあるのではないかという想定があったからだろうと思います。しかし、鹿島から鹿児島へという天孫降臨の構想が現実的に見えてきたのです。
古い伝説を後になってこのように大きな神宮にしたことも日本の文化のあり方だと思います。
天孫降臨の神秘化がこの神宮にも特色として感じられ、それを見ることもまた面白いことです。と教授は語っておられます。
社殿について
現在の社殿は、第21代藩主島津吉貴公の寄進により1715年(聖徳5年)に建てられました。絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅使殿、門守神社等は、山の静けさの中に美しく佇み。1989年(平成元年)、国の重要文化財に指定されました。
これは徳川時代の名建築と似ており、日光東照宮や様々な江戸の建築の粋を集めていると言っても好いと思います。
非常に装飾的であり、派手でもあります。
そして地元に神様が降りられたということを祈念するうえでも島津公が誇りを持っていたということがよく分かります。
参拝者も多く、新しい歴史的考察の上に立つと神話が観念化され、九州に高天原があると信じられたわけです。
しかし、歴史的にはそうではないこともあり、そういう神宮が建てられたことは非常に象徴的だと思います。われわれの新しい歴史というものは、今あるこのような神宮と、具体的な歴史を同様に説明していくことでもあり、霧島神宮が歴史的な意味があるということをお伝えしたく思います。とのことです。
ここは邇邇芸命がお住みになり、と同時にそれ以後三代神武天皇までの鹿児島におけるひとつの国が出来たと言えるということで、この霧島神宮が重要な役割を果たしたことが想定できます。
霧島神宮が邇邇芸命、鹿児島神宮が山幸彦と言えます、と。
さらに、この地には霧島連山があり、それを祭る神社でもあります。
霧島神宮は
鹿児島県霧島市霧島田口、宮崎県との県境近くにある。天孫降臨の神、邇邇芸命を祭る神社。邇邇芸命が天降った霊峰・高千穂峰を背景にして建つ。
邇邇芸命を主祭神とし、妻の木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)、
子の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、その妻、豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)、孫の鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあわせずのみこと)、孫の妻、玉依姫尊(たまよりひめのみこと)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)/神武天皇を祭っています。
霧島神宮の奥社
知る人ぞ知る隠れパワスポ「山神社」です。
祀られている神様は大山津見神(おおやまずみのおおかみ)です。
天孫降臨された邇邇芸命(ににぎのみこと)の奥さん木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のお父さんです。
日本の山に宿る山の神様として有名。
霧島の連邦が続き、山に対する祈り、お祭りごと山さえあれば、それが神道です。
これを見ると神道の原型がよく分かり、人々がここで祈っていたことも分かります。ここに神話が持ち込まれ、山の下に神宮が建てられたことが分かります。これこそ縄文の自然信仰の原型と思います。それが九州の鹿児島に見られることにも、実は縄文杉は種子島にありますが、そこが近いことも感じます。木、山、土、岩、太陽などの信仰をここで行っていたのだなぁと、田中教授は樹々に囲まれ自然と一体になって語っておられるお姿が印象的でした。
次は神武東征の出発地・宮崎神宮に行ってみましょう。お楽しみに