鳥居の形が伊勢神宮とそっくりな神武天皇陵

初代神武天皇の陸墓。奈良県橿原市、橿原神宮の北に隣接する円丘の形状で周囲は約100m。   記紀に「畝傍山の北方、白禱尾の上」と記された神武天皇陵は、いくつかの地を巡り江戸末期の(文久3年)、現在の地に治定されましたとのことです。

実は、神武天皇のお墓は徳川時代までは不明でした。                     田中教授は、当初、畝傍の山の中腹に前方後円墳のような形をなしているお墓があり、記紀にも畝傍の山でお亡くなりになられたことが記されているので、その地と予想されたそうですが・・・

・・実は御魂というのはどこの地にと固定しなくてもよく、つまりお墓がどこにあったかというよりも、どの時代にどういうふうに生きられたかが大事であり、歴史家としてそのように分析します。と語られます。

ここは明治時代に造られたお墓で、初代の天皇らしい広い敷地内に祀られています。昭和15年に大祭がありましたが、今年2681年目という長い年代が経っていると、

歴史的にも不明になってしまいます。これは、それとして認めなくてはいけません。

明治時代に、この地に定められたことは、国民の合意の問題であり、それで由としなければならないのです。

2600年前(縄文時代)を第一次大和時代とすると・・。

その時代に饒速日命(にぎはやひのみこと)が居られた。磐余彦(いわれびこ)の前の王朝があり、それが神武天皇の叔父様にあたる。邇邇芸命、饒速日命は兄弟であることが読み取れます。

とすると、血筋というものは重なっていくわけで神武天皇は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)として邇邇芸命(ににぎのみこと)の三代目、饒速日命がすでに邇邇芸命、つまりお爺さんの同じ世代の大王(おおきみ)としてずっとここに住んでおられました。

それが欠史八代と言われた八代以上も繋がっていたということ、更に饒速日命が、磐余彦(神武天皇)が東征された時にお会いになり、そして国譲りをされたわけです。

 

そして、そこで抵抗していた長髄彦(ナガスネヒコ)という武将を殺してしまうことがありました。

∴饒速日命は磐余彦(イワレビコ)と血筋があるわけです。

それを譲られて新しく大和王朝を作ります。

しかし、それが(ハツクニシラススメラノミコト)という同じ名前で神武天皇と崇神天皇が呼ばれるわけです。そこで二人の名前の天皇が同一化する、という歴史の展開が読み取れるのです、と。

とにかく、文字のない時代で、2600年も前のことを記紀に記すのです。

そこに書かれた記録が無くなってしまったために、記紀が際立った神話と歴史をみごとに融合した本なので、それを我々は如何に読み取るか、しかし神武天皇の信仰がこうして続いていることが大事なのです、と。

 

西暦の時間が正しいと思われていますが、これもある意味では造られたものなのです。拘り過ぎると矛盾し、イマジネーションのない歴史家が不在説をわざと言おうとしますが、確かに存在されていたわけで、厳密に年代を言う必要はないのです。

この地に国民によってお墓が造られたそのことが大事なことであり、その継続性が天皇の存在を保証するわけです。こうしてお墓の前に来てみると新たに存在感を感じさせられます。皆さんも是非ここにきて体感してくださいと、田中教授が仰って居られます。

 

       鳥居の形が伊勢神宮とそっくりな理由

 

伊勢神宮は天照を祀っています。それぞれの天皇陵が一貫して天照の子孫が天皇になられていることで、鳥居が一番単純であり、これを神明造と言うそうです。

これこそが日本の原初の皇命(すめらのみこと)、統治者であり、長者(一番長い家系)であり由緒ある御方である。それが示され、縄文から来ている日高見国という大和時代よりはるかに長い関東東北にあった国の人が関西にやってきて大和国で統一され、天孫降臨されて統治される。そういう姿が目に見えてくるでしょう。

日本が日の元である。そこから出てきた天照、その子孫が大和にずっと居られる。 そして平安卿、そして鎌倉へと政権は変わりますが、ずっとここに居られたということが分かります。是非皆さんもここに来て感じ取っていただきたいとのお言葉でした。

伊勢神宮(内宮)の入り口にある大鳥居。

日本独特の古式ゆかしい伝統を感じる佇まいです。

次回はヤマト王朝発祥の地・纏向遺跡をお送りいたします。お楽しみに。