ヤマト王権繁栄編(後編)

古墳時代から仏教伝来

第10代崇神天皇は各地に将軍を派遣するなど、大和王権の基盤を整え、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)と讃えられました。

その後も日本武尊(ヤマトタケルノミコト)による各地への遠征や神功皇后による朝鮮半島の新羅征伐など内外の平定が行われました。

こうした努力が実り第15代 応神天皇 第16代 仁徳天皇の御代 古墳時代の黄金期を迎えます。

国内は落ち着き、引き続き、朝鮮半島の国々も朝貢国として従えていました。

当時の日本がいかに大国であったかを知るには、応神天皇・仁徳天皇の陵墓を見るだけで充分でしょう。

 

応神天皇陵                               長さ425m 高さ36m

 

 

 

仁徳天皇陵

長さ 525m 高さ 40m

往時は更に大きかった可能性が指摘されています。

ゼネコン大手の大林組が昭和60年1985年に古代工法による仁徳天皇陵の建設工費と工賃を算出したところ、延べおよそ680万7000人(2000人/日)が動員され、工期は15年8ヵ月 総工費は796億円でした。

このような世界最大級の建造物を造る国力が日本にあり、時の天皇がそれほどに尊敬される存在であったことは確かですが、それだけではありません。資金と技術の面で大いに活躍した氏族がいました。それは秦氏です。

日本正史である『日本書紀』に次のような記述があります。

応神天皇十四年二月

弓月の君率いる約18000人が日本への帰化を希望していたが、新羅が邪魔をしていたため、加羅国(からこく)に留まっていた。応神天皇は「木菟宿禰」(つくのすくね)に精兵を授け、邪魔するものを打ち、道を開けと詔した。 新羅王は恐れて詔に伏した。

こうして弓月君率いる約18,000人もの人々は日本にやってきます。

弓月の国とは現在のウイグル カザフスタンにあった原始キリスト教を信仰する国で、平安時代初期に造られた士族名鑑である新撰姓氏録には

秦氏は秦始皇帝の三世孫、孝武王の後裔であり、孝武王の子の功満王(こうまんおう)は仲哀天皇8年に来朝、更にその子の弓月君が応神天皇14年に来朝した。とあります。
秦の始皇帝がユダヤ系であることは中国古代の文献にも書かれ、田中教授も研究により確かめられています。
従ってその子孫である弓月君と、弓月君と率いられた多くの帰化人たちもユダヤ系渡来人です。
日本は彼らの帰化を快く迎えました。

彼らは養蚕や絹織りに従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように温かいことから波多の姓を賜ることとなりました。そして現在の京都、太秦の地を与えられました。

ディアスポラ民族離散により彷徨ったユダヤ人たちは、豊かな自然に恵まれた日本に快く受け入れられ、同化し、様々な分野で日本のために活躍するようになります。特に自分たちを連れてきてくれた応神天皇や手厚い待遇を与えた仁徳天皇への感謝から資金や土木技術を惜しみなく投入し、世界最大級の巨大な墳墓である応神・仁徳天皇陵の建造に力を尽くしました。

 

 

 

 

 

6世紀になると日本に仏教が伝来します。聖徳太子は個人が信じることが出来る宗教として仏教を受け入れました。共同宗教の神道と個人宗教の仏教、この二つを受け入れることで日本人の精神は豊かに熟成していきました。

日本人は佛を「ほと」という仏教の教えを「け」形にみました。すなわち仏像です。そして個人宗教である仏教が入ったことにより

仏像には作家が誕生しました。
優れた仏像のたぐいまれな姿は神道の土台の上に仏教によって人間を深くみつめた仏師たちによって生み出されたのです。
歴史学者であり美術史の第一人者である田中教授は仏像を語る時、作家を重要視しない傾向には警鐘を鳴らしています。

神仏習合を成し得た日本はますます成熟し八世紀前半には聖武天皇によって世界でも稀有な文化国家へと導かれます。

あおによし ならにみやこは さくはなの

におうがごとく いまさかりなり

奈良(寧楽)の都は今は、

咲く花の匂うように真っ盛りである

と、謳われた天平の時代です。

聖武天皇は仏教による鎮護国家を目指し、全国に国分尼寺を創建、総本山として東大寺を建立し、

台座を含めると18mにもなる現在でも世界最大のブロンズ像である奈良の大仏を造ります。

大仏を造った仏師 国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)は、田中教授が天平のミケランジェロと呼ぶ大彫刻家です。

次は「日本に同化したユダヤ人」です。お楽しみに。