大国主命が要求した大神殿の謎

出雲大社の本殿の前にやってきました。
この大神殿は日本のシンボルの一つとも言えます。

 

          上記画像をクリックすると、巨大の柱の模型が表示されます。

※出雲大社には、天之常立の神(あめのとこたちのかみ)・神産巣日神(かみむすひのかみ)・天之御仲主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすひのかみ)・宇麻志阿斯可備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の別天神五柱と和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)が祀られています。

※現在の本殿は1744年(延享元年)に造営され、1952年(昭和27年)に国宝に指定されました。

大社造(たいしゃづくり)と呼ばれる日本最古の神社建築様式で高さは24メートルに及びます。

 

大国主神が鎮座する神座は本殿の南向きではなく、西向きに配置されています。多くの学者は九州の方を向いていると言いますが、 田中教授の新たな解釈では鹿島神宮と相呼応しており、鹿島神宮の拝殿は北向きですが、中の御神座は東を向いているということは両神宮の強い結びつきを感じさせられます・・・と

 

鹿島神宮はアマテラスが守られているところで武御雷が祀られています。その周辺には多くの高天原という地名が出てきます。               それは高天原が関東東北にあったいう証拠であると言っているわけですが、それと呼応して、出雲大社が西を代表して、相対応している線で結ぶことが出来るという面白い解釈も成り立ちます・・・と。

 

巨大な円と三つの柱が・・

※2000年(平成12年)の遷宮の際、古代の柱が発見され、
千家国造家(出雲大社の宮司家)に伝わる古代本殿の平面図「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」の通り、3本の大木を鉄輪で束ねて1本の柱とし、本殿の高さは現在の倍、48メートルに及ぶ可能性が示されました。

神殿の前には、巨大な円と三つの柱が束ねた形で図式化されております。

博物館に展示されておりますが、これは三本の大木を鉄輪で束ね1本にまとめ、神殿を造る柱にしたのです。神殿の前に三か所あります。これこそ、現実に巨大な神殿があったということを示しています。

これは2000年(平成12年)に出雲大社の発掘調査があり、1248年鎌倉時代(宇治2年)に遷宮された時の本殿の柱であるということが分かったのです。直径110センチ、つまり2メートル以上の直径の柱です。想像すると90メートル以上の大きな神殿であったということが分かります。

これは鎌倉時代のものですが、それ以前に造られたものはもっと巨大なものであったと想像します。それだけ大国主命の存在がいかに大きかったかということが分かります。

 

神在祭

10月の和風名月は神無月ですね。「全国の神様が出雲(島根県)に集まるため神様がいなくなる」という由来は有名です。

旧暦の10月10日~17日、全国の神々が出雲大社に集まります。
そのため旧暦の10月は神無月であり、ここ出雲では神在月となります。

神在祭の前夜、国譲りの伝承地。稲佐の浜で神々を迎える神迎神事が行われた後、
神々は大国主神が待つ出雲大社に向かい、世の様々な事柄を神議り(かむはかり)にかけて決められます。その時、神々が宿泊されるのが、本殿の東西にある十九社。いま映っているのは東十九社です。

国譲りを天照が言われた時も、ここで 西の方の士族たちが集まり「どうするか」を話し合ったにちがいないと想像されます。

国譲りが重要な議題であったと推測し、神在月であり、他の神社は神無月となったわけです。

それが今日まで残っていることが非常に面白いことですね。

 

出雲大社の境内から心御柱(しんのみはしら)が発掘される

2000年10月。島根県の出雲市の出雲大社の境内から平成12~13年に出土し、

鎌倉時代に建立されたとみられる本殿を支えた巨大柱の中心に位置した「心御柱」、これまでの歴史の定説を覆す、「考古学的大発見」がありました。直径1メートルを超える大木を3本も束ねた巨大な柱が出土されたのです。

心御柱は、出雲大社に高層神殿が存在した可能性を示す中心的な柱で「神が宿る」とされています。

「3本の巨木という決定的証拠の発見によって、かつて出雲地域には伝説の大神殿が存在していた」という言い伝えが、本当に事実であったことを、完全に裏付けられてしまったのです。

この言い伝えは記紀に「国譲り神話」として記されています。

それは「国譲り神話」の中に、出雲を治めていた大国主が、“国を譲れ”と迫った高天原勢力に、一つの条件を提示しました。

「国を譲る代わりに、頑丈な基礎と太い柱で、高天原に届くほど高く、千木をかざして建ててもらうならば、私は出雲の地の果てに隠れておりましょう。」    そう大国主がお願いして、造られたのが、地上48メートル、マンション16階の高さに相当する巨大な出雲神殿でした。

今回発見された巨木は、この出雲大神殿を支える柱の一部であったのです。

その証拠に、出雲大社に古くから残された「大神殿の設計図」と比べてみても・・

柱の大きさも一致。 「3本の木を1本に束ねる」という形も見事に一致。   これによって、高さ48mの大神殿」の柱であることは、ほぼ間違いないとされ・・

神話で出てくる伝説の神殿は現実に作られたものであった・・・と、そう考えざるを得ない、まさに歴史を覆す大発見となりました。

その他にも、出雲地域では、358本の銅剣、16本の銅矛、39個の銅鐸といった大量の祭祀道具が出土されるなど、遥か昔、出雲に「非常に大きな勢力」が存在していたと思わせる、決定的な証拠の数々が見つかっています・・・  

 

不思議なことにこれら銅鐸や銅剣には✖印が付けられています。

今までは、完全に「作り話」だと思われていた出雲の大神殿・・・

しかし、これらの発見によって、単なる作り話ではないのではないか・・?

神話と実際に起きた歴史との関連性について関心が集まり始めました。

田中教授の調査で解ったことは、出雲大社と鹿島神宮は共通の設計であるということ。
つまり、出雲大社は「高天原」の神殿に似せて建てられていたのです。武御雷の神が住む鹿島神宮があった場所が「高天原」であると考えれば、高天原式(鹿島神宮式)の建築方法で出雲大社を造った。鹿島神宮と出雲大社の形式が全く同じであり、「神座の向き」も共通しているということが理解できます。

神座の形と「国譲り神話」を結びつけることで田中教授は「鹿島神宮の周辺こそが高天原である」と断言しています。

∴ 高天原は”地上”のことであり、それは鹿島神宮を中心にした「関東」にあたる場所だった。

更に

「天孫降臨」とは高天原の神々が地上(九州)に舞い降りてくる・・・と常識では理解できない現実離れし
た話であるため、ただのフィクションとされてきましたが、関東から人々が船で海を渡って九州に移動したと考えれば、現実を帯びてきます。最初の方で記された御船祭の記事を再度ご覧になり、壮大な日本の歴史の真実を紐解いてみるのも日本人として冥利に尽きることになるでしょう。

 

次は「天孫降臨について」お楽しみに。