チビタとまり子さん

         


まえがき

僕は猫のチビタです。

チビタは飼い主のまり子さんが付けた名前です。

このお話はチビタが晩年になってから体験したまり子さんとの愛の物語です。

僕の精一杯の人生? いや? 猫生をお届けします。

どうか楽しみながら読んでくださいネ。

(一)

チビタがお庭を歩いていると

「チッ チッ」(舌を上あごにつけて)

「!? 誰だろう。僕を呼んでいるのは」

チビタは 音のする方に顔を向けました。

「わぁ 高いなぁ あんまり上まで 見れないよう!

お二階のおばさんが布団を干している・・。

でも僕を呼んだのはそのおばさんでは、ないみたい・・!?」

 

チビタは、このマンションの一階に引っ越してきたのです。

僕の飼い主はまり子さんという おばさん、いや 今はもうおばぁさんになってしまったけど・・、

昔は帽子がよく似合うお洒落なお姉さんでした。

長い髪の毛を肩まで伸ばして、優しい目で、

「チビタ チビタ」と呼んで 僕を可愛がってくれるのは昔も今も同じなのさ!

 

えっ! 何故 僕が引っ越してきたのかって?

僕はその事情はよく知らないけど・・・黒い鞄(かばん)を持った先生が

度々訪ねて来ていたので、まり子さん兄妹たちの間に辛い出来事が あったみたい・・・

 

前に住んでいた所は、古いけど二階建ての大きな家だったので、  部屋中を駆け回ったり、お庭を飛び回ったり、外の地形にも詳しく、

それはそれは自由気ままに過ごしていたチビタなのでした。

 

まり子さんも環境が変わって大変そうだけど、僕も本当に大変なんだ!

ここは鉄筋コンクリートのマンション。

七百世帯も あるんだって! 坂が多くて そこここに小さなお庭もあり、階段もある。

 

僕には、何処もかしこも おんなじ景色に見えるんだ!

猫は地形に強く、遠くに捨てられても戻ってくると言うけど、   ここは違う!

みんな同じ景色なんだ!

まり子さんは坂道も辛そうだし、外に出ると、いつもキョロキョロ見回している。

だから、きっとチビタも外に出たら道に迷って帰って来られないだろうと心配して、僕を家から出さないのだ!

(二)

チビタが越してきたのは冬だったので、いつも炬燵(こたつ)に潜り込んでいたけれど、狭い部屋に一日中閉じこもっているのに、耐えられなくなってしまったのです。

ある日のこと

そんなチビタの気持ちを察して、まり子さんは僕を風呂敷に包んで近くの公園に連れて行ってくれたんだ。

道中、チビタは顔を出していたので、公園の空気を感じて、一目散に走り出したかったけれど、風呂敷の中で身動きの出来ないチビタなのでした。

 

公園には大きな木が沢山立っていて、小さな丘にはベンチがあり、太陽もきらきら輝いて気分転換には最高!

「さあ!遊びなさい」

まり子さんは チビタの風呂敷を解きました。

やわらかい土の感触が小さな足の裏から伝わってきて、チビタは 一目散に走った走った!

草の匂いを体中に浴びながら、丘を越え、小道を駆け回り、樹々の間を抜けて・・・。

 

公園は家の中とは違って、空気がとても美味しい。

ドングリもいっぱい落ちていて、草もゴミもみんな玩具に見えた。

 

チビタは、まり子さんが待っていることも忘れて夢中になってしまったのでした。

 

遊び惚(ほう)けてふと見上げると、まり子さんの声が聞こえました。

チビタは再び風呂敷に包(くる)まって公園を後(あと)にしました。

そして それから再び、チビタにとっては辛い暮らしが始まったのでした。

まり子さんも齢(とし)を取り、ぼくが迷子になるのが心配で心配で、僕を閉じ込め、なかなか連れ出してくれません。

チビタは、もう我慢の限界にきていました。

 

そんなあるとき、まり子さんは 三階のおばさんと親しくなり、家に訪ねて来ては楽しそうにお喋りしたり、美味しいお菓子を食べたり していました。

チビタはそのおばさんに、まり子さんを取られてしまいそうな気が

して、嫌がらせをしました。

歯を剥(む)きだして妖怪ならぬ、化け猫の顔を演(つく)って見せたのです。

 

「そんな 顔をして!」

まり子さんは怒りました。

でも 三階のおばさんは笑っていました。

 

チビタは仕方なく炬燵(こたつ)に潜って寝てしまいました。

でも、僕は、ストレスで体の調子が可笑しくなり、

ご飯を食べ過ぎて戻してしまうのです。

まり子さんは とても困った顔をしていました。

 

ある日のこと、 チビタは決心しました。

脱走を考えたのです。

まり子さんが出かけて帰ってくると、鍵の音ですぐ分かります。

戸を開けて閉めるまで、もたもたとしているので、

その隙を狙って、チビタはさっと飛び出しました。

まり子さんは一瞬呆然としていましたが、僕は一目散に走り出しました。

何処をどう通ったのか覚えていません。

チビタの初めての冒険でした。

 

(三)

そして 一か月経ちました。

まり子さんは 毎日、朝も夕方も公園を探したり、風の便りに聞いた 野良猫の、たむろ場に行ったりして僕を必死になって探したのです。

周りの皆がチビタのことを、もう帰って来ないと諦めていたけれど、まり子さんは、チビタの匂いのする箱やタオルを、庭や植え込みの辺りに置いて、僕の帰るのをじっと待っていたのでした。

 

そんなある日のこと、

公園とマンションの通路側にある駐車場の車の下に、半分倒れかけている僕を見つけて

「チビタ!」と

優しく声をかけてくれたのです。

チビタは一か月間何も食べておらず、体はやせ細り、目も虚ろ(うつろ)なくらいでした。

このマンションの地形はやっぱり難しい!

 

風呂敷に包まれて公園に行ったときは、キョロキョロ見回したけど、あと一歩というところで、家まで辿り着けなかったチビタなのでした。

 

(四)

それから いく日かたち、チビタは 反省の様子もなく、ご飯をいっぱい食べて、見る見るうちに元の体重に戻っていきました。    顔も丸く、目も輝きだしました。

まり子さんは三階のおばさんの提案もあって、ベランダのガラス戸を少し開けることにしました。

チビタを、ここから自由に出入りさせるために・・。

まり子さんとしては一大決心です。チビタがまた逃げたらどうしようと・・

お陰で僕はベランダの格子から自由に庭に下りることができました。

最高! 二度目の冒険!  自由を得たのだ!

 

チビタが喜ぶのも束の間。

飛び降りることは出来ても、格子の隙間に飛び上がることが出来なかったのです。

やはりチビタも高齢猫になってしまったのでした。

格子の隙間を目指すジャンプ力が叶わなかったのです。

でもチビタは流石です。その難問を考えました。

家に入るには玄関に回って、まり子さんが戸を開けてくれるのを待つという手段をゲットしました。

(五)

 

飼い主のまり子さんに少しずつ異変が起きていました。

段々と忘れることが多くなったのです。

それは約束をしたこと、片づけた場所、特に今日が何(なん)曜日かを忘れてしまい、決められたゴミ出しが苦手になってきました。

まり子さんは、 その事をとても気にしていて、紙に書きだしていました。

生ごみ     月曜  金曜

プラスチック      火曜

缶 ビン ペットボトル 木曜

 

まり子さんが字を書くと墨の匂いですぐ分かります。

まり子さんは書道が好きで、テーブルの上には硯(すずり)と墨がいつも置いてあり、筆に墨をつけて楽しんでいました。墨の匂いはチビタも大好きです。

まり子さんは漢字が得意で、他(ほか)の事を忘れても漢字は覚えているのです。

覚えていることと忘れることが同じくらいあるけれど、最近は忘れることの方が多くなってきました。

 

お部屋も片付けるのが苦手になり、荷物が床にも散らばっています。

引っ越してきたときの荷物が多すぎて片付けられないのです。  チビタも部屋を歩くときは荷物を跨いで歩きます。

チビタが心配なのは、お料理を作るのが億劫になったようで、大福や、ケーキなどで 夕食を済ませることが多くなりました。

近所の人が心配して、ご飯やおかずを持ってきてくれます。

 

(六)

ある日のこと

「チビタ ただいま~~」

玄関の扉を開けるなり、まり子さんは大きな声で僕に声をかけてくれました。

今日は三階のおばさんとお食事に出かけたのです。

大好きな焼きおにぎりとサラダとスープを食べてきたそうです。

こんな楽しそうなまり子さんを、チビタは暫く見ていません。

チビタも なんだか嬉しくなりました。

「にゃー」

まり子さんの胸の中で幸せなチビタでした。

 

 

元気になった翌日の事

 

チビタはベランダから庭に飛び降りたついでに、玄関に回ってマンションの階段を上まで登ってみました。

チビタにとっては、三度目の冒険です。一歩一歩階段を上っていくと、一番上の五階で行き止まり。見上げると一面の空。白い雲が浮かんでいました。

チビタが Uターンして 三階まで下りた時、突然玄関の戸が開(あ)いて、まり子さんが仲良くしている おばさんが出てきました。

チビタは びっくりして、急いで下りて一階で様子を見ていました。

すると、おばさんも下りてきました。チビタは 慌てて ツツジの陰に隠れました。

おばさんは何処かへ出かけて行きました。

その時チビタは、はっと気が付きました。

「チッ チッ」と

お庭で誰かが僕を呼んでいるような気がしたのは、 三階のおばさんだったのだと。

(七)                         ☆

 

西の空から燃えるような夕焼け雲が消えて、辺りがすっかり暗くなる頃、建物の横から小さな灯りがゆらゆら揺れながらチビタに近づ

いてきました。

まり子さんが懐中電灯を持ってチビタを探しにきたのです。

外に出ることが少なくなったまり子さんは、玄関の戸を開ける回数も少なくなり、チビタが家に入るタイミングを掴(つか)めないのでした。でもチビタはひたすら待っているのです。

チビタは まり子さんの体調が心配になりました。

まり子さんは、時々病院に行きます。

悪いところが いっぱいあるようで、薬もたくさん貰ってきます。

この間はチビタの目の前で突然倒れたのです。

もう びっくり!

でも まり子さんは 直(じき)に起き上がりました。

最近はどっち側に倒れるかが分かる、などと訪ねて来る人に話しています。

今日は打ち所が悪かったと言って、腰を擦(さす)っていました。

玄関はいつも鍵が掛っているし、もしもの事があったらと思うと僕は心配で仕方がありません

 

(八)

ひと月ほど経ちました。

家に色々な人が訪ねて来るようになりました。

地域ケアプラザとか、介護支援とか、民生委員など、福祉関係の人たちに、まり子さんは忙しそうにお茶を出しています。

 

皆(みんな)で話し合いの結果、お食事介護、お部屋のお掃除、ゴミ出しなどにヘルパーさんが訪ねてくることになったのです。

まり子さんは少しずつこの町や環境に慣れてきて、いつまでもここで過ごしたいと、ヘルパーさんに話しています。

 

チビタも心を決めました。

もう脱走はしません!

これからは まり子さんを支えていきます。

そして、もしも・・・もしも、まり子さんがまた倒れたら、そして起き上がることが出来なかったら・・

僕はベランダからお庭に下りて、一目散に階段の方に回り、三階まで駆け上がるんだ!!

そしておばさんの玄関の前で、大きな声を出して

「にゃーお! にゃーお!」

と、おばさんに知らせるんだ!!

 

チビタは髭をピーンと張って

逞しい覚悟の顔つきに なっていました。

「にゃーお!」               おしまい