日本国家形成の過程~ 前編

日本国家形成の過程を考えるには、東アジアに限定した視界を取り払い、世界的視点に切り替え、世界地図のアフリカ大陸/ユーラシア大陸/日本を思い浮かべてください。

アフリカで誕生した人類・ホモサピエンスが世界に拡散したわけですから、日本人もその中におりました。

10万年前アフリカで人類は誕生し、太陽の登る場所を目指して東へと進み始めます。中東・インド・東南アジアを経て日の昇る国、日本に辿り着いたのは今から約4万年前のことです。温暖湿潤の穏やかな気候と豊かな自然に恵まれた日本列島に到着した人々は、さらに東へと進み定着しました。そして温暖期を迎えた縄文時代には、東日本を中心に高度な文化を育みました。

縄文文化の代表として知られる縄文土器は世界最古の土器であり、最も古いものは青森県東津軽群の大平山元遺跡から出土した1万6500年前のものです。

縄文時代はこの頃から紀元前10世紀頃まで約1万5000年にわたって続きました

東日本に栄えた有力な氏族たちは、日が高く昇のを見る国、日高見国を形成し、その中心は東の最も広大な関東平野にありました。例えば後に藤原氏となった中臣氏の出身が茨木県鹿島市の鹿島神宮であり、物部氏の出身は千葉県香取市の香取神宮です。いずれも今日までその歴史を続けています。

弥生時代に入ると寒冷化が進み、関東・東北に集中していた人口は徐々に西日本へと移動します。アフリカから人類が日本列島に到達したように、その後も帰化人の日本への流入も続いていました。シナ大陸では周の統一王朝が崩れて春秋戦国時代に突入しており、戦乱状態の大陸から九州へと流入してくる難民も多かったでしょう。日高見の国の人々はこのような外圧に相当な危機感を持って西日本をまとめる必要に迫られます。神話に語られる天孫降臨・神武天皇による東征はこのようhな外圧を受けた統一事業でした。そして日本の中心は東日本から西日本へと移ります。

 

最初に東が西を抑えたのは「国譲り」でした。出雲を中心に西日本に栄えた新興勢力を東日本に栄えた縄文以来の日高見国が吸収しました。日高見国から派遣された武御雷の神・経津主命は強大な力を持って出雲の大国主神を説き伏せます。

藤原氏の氏神である武御雷神は現在も鹿島神宮におられ、物部氏の氏神である経津主命は現在も香取神宮におられます。

日高見国の中心 神々の住む高天原は現在の茨木県鹿島であり、そこから邇邇芸命一行は大船団を仕立て鹿児島へと天孫降臨しました。鹿島から鹿児島へです。

鹿島の児だから鹿児島というわけですから、明治の廃藩置県の時、県名を考えた人は歴史としての神話の記憶を地名に残したかったのでしょう。

江戸時代の著名な学者・新井白石も 「神は人なり 高天原は鹿島神宮のあたりを指す」と述べており我々が教えられた戦後の歴史教育とはずいぶん違っています。

そしてここでもう一つ重要な事があります。

一般的には天孫降臨というと邇邇芸命によるものを言いますが、もうひとり饒速日命という方が関西に天孫降臨していました。

鹿児島へと天孫降臨した邇邇芸命から数代を経て、神武天皇が西日本を平定するため宮崎を出発します。一方饒速日命の勢力はすでに関西を抑えていました。

九州、中国地方を制圧し関西に入った神武天皇は饒速日命とぶつかります。その中の長髄彦に敗れ窮地に追い込まれます。それまで西から東に向かって進んでいた神武天皇は日高見国の太陽の御子である自分が東に向かって行軍するのはいけないと考え、大阪から伊勢方面に回り込み、太陽である日高見国を背にしてその後押しを受けて戦い勝利をおさめます。そして奈良県橿原の地で最初の天皇に即位されました。

このように東日本の高天原勢力による「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」という統一事業は大陸情勢を背景とする危機感から行われたものであり、特に神武東征は九州防衛に対する強い危機感から計画されたと考えられます。

最初に大和王権都となったのは奈良県桜井市にある纏向遺跡であっただろうと考えられます。纏向遺跡からは4棟からなる3世紀前半の居館跡が発掘されました。

最初に日高見国から関西に降った饒速日命の居館だったのでしょうか?

それとも神武天皇でしょうか?

田中教授が神武天皇と同一人物ではないかと考える第10代崇神天皇かも知れません。そして纏向地域には278mという巨大な前方後円墳箸墓古墳があります。

3世紀後半のものとみられ巨大な前方後円墳としては最古のものです。

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)、  卑弥呼の墓だと主張する説もあります。

しかし田中教授は神武天皇と同じ 始馭天下之天皇(ハツクニシラス)の名を持つ第10代崇神天皇の陵墓ではないかとの説を展開します。それはこういう流れです

饒速日命が関西に天孫降臨(最初に関西地域を治め)決史八代 2~9代  饒速日命の政権

その後に神武天皇の政権が行われたと考えると

第10代 崇神天皇が神武天皇であり、最初の巨大前方後円墳である箸墓古墳こそが崇神天皇(神武天皇)の陵墓であるということです。

ヤマト政権誕生の地である奈良県桜井市には三輪山に鎮座する大物主神を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)があります。

日本の神道はまず太陽を中心とする自然そのものが神であり、自然と神は一体となっています。

古事記の冒頭もまず天地が現れ、そして最初の神である天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が現れます。

神が自然をつくるキリスト教とは反対です。

三輪山は山そのものがご神体であるため、古来より江戸時代まで神官や僧侶以外は足を踏み入れることのできない禁足の山とされてきました。明治以降は心得・規則を尊守すれば入山できるようになったものの一部の神域に禁足地が定められています。

日本の歴史は大和から西日本から始まり、それ以前は古代の神話の世界というイメージを持っていないでしょうか。

しかしそれは大きな間違いです。

縄文時代から東日本に高度な土器を造る文化的な国々があり、それらの氏族たちが日高見国を形成し、弥生時代になり、日高見国が西日本に大和政権をつくりました。

日本は東から始まった国なのです。古来から伝わる中臣氏祝詞には、日本のことが「大倭日高見国」と書かれています。

西の大和国と東の日高見国の二つをあわせて日本ということです。

以上田中英道教授より・・・ つづく