縄文土器は何故、弥生時代に廃れてしまったのでしょう?

歴史というのは、色々な条件により、例えば歴史的条件、外交的な条件、内政的な条件もあり、世界が変化していくこともある。

縄文時代というのは基本的に自然条件が一定したところで土器や土偶が造られる。
16500年前から縄文土器が造られ始め、それまでは氷河時代(西洋ではそういう)で寒かった。それがだんだん温かくなり縄文時代になる。(ヨーロッパでは縄文時代がなく石器時代と言われた)縄文時代は日本だけということを気づかない人たちもおれられるかもしれません。日本だけにあり、縄文土器というのは土を焼いて造るわけです。石器というのはそのまま石を砕いて造ります。従ってそこには細工がなく、加工するという技術がありません。

日本は土器を造るというだけでも、ある種の文化があると言える。そこに縄文という紋(もん)を造ることである種の思想があります。

これまでこのことについて殆ど意味がないと言われてきた。縄文なんて周りに布目を入れただけと言われ、形に基層があるということに気が付かなかった、単なる実用なために造るというのは西洋ではなかったわけですが、日本人はそれを焼いて、網目を付け装飾をして、火を焚いて、そこにくべて置いて、料理をするほどに、加工をするということをやっていた。

16500年前から紀元前1000年前ぐらいまで、弥生時代になっているわけで、何故縄文になったかと言うと、その時代はかなりの帰化人が入ってきたからである。

一番の理由は温暖化したということ。北海道まで暖かかった。三内丸山の東北地方まで暖かかった。だから日高見国が出来、人口の90%が関東東北にいたということは、太陽を拝みに来た人たちがそこに定着したからです。

寒くなり弥生時代になったのは正に第一次大和時代、饒速日の命が関東から奈良にやって来て、邇邇芸命が鹿児島にやってきた辺りから弥生時代と言われています。

古墳時代と言われるのは第二次大和時代(9代崇神天皇)、その前の饒速日命の時代が第一次大和時代で、そこに弥生時代が被っている。

そこに政治的な動きや 外来から来た人たちが寒冷化により西に移動していった。同時に帰化人が来るということは外からの危険性というものが強くなってきて大和に都を移すということを行っています。

時代が変わって廃れたのではなく自然に消えていった、ということでしょう。安定した自然環境がなくなったと同時に社会的な変動が始まり、異なる文化が入ってきたということでしょう。                 田中英道師より