世界遺産になった”応神天皇陵” その①

ここは大阪市ですが、この近くに仁徳天皇陵があります。その向こうには大阪難波の向こうに瀬戸内海が広がっています。一体なぜこんなところに大きな天皇陵が建てられたのか?これも謎の一つになっています。

天皇ご自身は大和に居られます。
ここは弓月国から1万7千人以上もの渡来人が来ています。応神天皇を知る上でこれが非常に大事なことなのです。これまでは国内問題だけで考えられてきましたが、これだけの巨大なお墓、(仁徳天皇は更に大きなお墓です)その財力・資力・国民の動員力はどこから来たのかについては誰も問うておりません。

応神天皇の時代には弓月国から沢山の渡来人がやってきたのです。

弓月の国というのは秦の始皇帝の子孫であると「新撰姓氏録」に記されています。しかし日本の歴史家はこういうものは勝手に作ったもので、秦の始皇帝なんて言うと偉そうに聞こえるから、それを入れたのだと・・そういう程度しか言っておりませんでした。
しかし田中教授は、さらに前の時代から考えると、秦の始皇帝というのはユダヤ系の人であることがほぼ分かってきたのです。
それは由来や史記をよく読むと、ちゃんと記されているのです。

秦の始皇帝のお墓も有名ですが、多くの兵馬俑があります。その兵馬俑と共に馬車に乗った、その時代の始皇帝の銅像が出てきたのです。その顔を見ると堂々としていて中国人には見えません。 モンゴロイドというか、明らかにユダヤ人の顔です。ユダヤ人というのは別に特殊化しているのではなく、このシルクロードがユダヤ人の道でした。

ユダヤ人たちは商人としてこの道を行き来しておりました。他のペルシャとかローマの商人は行っても帰ってきます。
ユダヤ人たちは行った先で住み着いて、また12氏族の小さな国を造っていく。新羅、百済もその一つです。そして最後に日本にやって来たのです。

日本にやってきた時に、応神天皇が迎えてくれた。それが巨大で安定した国であった。
天皇がずっと居られて15代です。
物語ができるのです。

仁徳天皇が名前を付けられたと思いますが「太秦(うずまさ)」と言い、
絹を秦氏が持ってきました。それを渦のようにたくさん持ってきたということで
「太秦」と名付けて、京都に土地を与えました。
それが今でも土地の名前が残っています。

★秦氏とは日本に渡ったユダヤ系渡来人。代表的人物は聖徳太子と共に活躍した秦河勝(画)
河勝はキリスト教を日本に紹介したと言われている。

そこで初めて巨大なお墓の意味が解ってきます。
ユダヤ人たちは、この頃すでにいろんなところに住み込んできますが、各地に放浪しては、その地に建築を造っていく、都市も創っていく。従ってシルクロード沿いには巨大な都市が多いわけです。後になってイスラム教の都市になってしまいましたが・・

日本にやってきた時も、彼らの建築技術は、
こんな高い山を石で積んでいくわけですから・・
巨大な石をピラミッドのように積んでいくのではなく、かなり小さな石でも積んでいくという技術は同じなのです。

これを誰が持ち込んだというと、彼らしか考えられないのです。
中国人にもこのような技術はありません。前方後円墳があるかというとないのです。
朝鮮には5,、6世紀のもので、これを持って行ったと思われます。

誰が造ったか?
仁徳天皇陵は、大林組という建築会社が調査したところ、一日2千人使って16年かかるということです。では誰が給料を出したか?(コメなどの食料を配ったのでしょう)動員は?
それは勿論天皇の詔があったのでしょうけれど、それを技術力、経済力で支えたのは明らかに弓月国の彼らだったということを言えるわけです。
何故かというと土地を貰っておりますから。
絹の仕事をしたり、お酒の仕事をしたり、さまざまな仕事を持ち込んだのです。
日本にこれだけ豊かな産業が出来ていくという時代でもあったのです。

応神天皇陵がそれをうまく利用して、大和の日本を創り変えていく、これが応神天皇陵がやられたことだと思われます。
次号では世界遺産になった応神天皇陵と仁徳天皇陵を原型に戻して、世界の人々に見ていただくことの実現を田中教授に語って頂きましょう。  お楽しみに

 

 

 

 

★新撰姓氏録・・815年(弘仁6年)に編纂された士族名鑑