『真・日本建国史』①

日本建国神話とは、九州の地で「天下を治める」と決意した神武天皇が瀬戸内海を経由して奈良盆地とその周辺を統治していた豪族を滅ぼし、日本初の王朝・ヤマト王権を建国したという一連のお話です。

実はこの神話は、戦前までは当たり前のように教科書で教わっていました。
ところが、戦後になると「神武天皇は実際には存在していなかったので、架空の物語に過ぎない」「神武東征とはあくまで神話(フィクション)である」と神武天皇と東征の物語は「ただの作り話」として歴史学者から完全に否定され教育の場で全く教えられなくなりました。
神武東征は本当に「架空の物語」なのでしょうか?

戦後の学者が言うように、古事記や日本書紀に記された建国の物語は本当に「ウソの歴史」なのでしょうか?
最新の考古学研究で浮かび上がってきた神武天皇と神武東征にまつわる3つの謎を見てみましょう。

①  なぜ神武天皇の伝承が「東征ルート」の各地に克明に残されているのか?

実は、宮崎、福岡、広島、大阪、和歌山、奈良など、神武天皇が辿ったとされるルートには、異様なほど多くの伝承や遺跡が残されています。たとえば、神武天皇が出発したとされる宮崎県日向市の美々津町、この地域には「起きよ祭り」という不思議なお祭りがはるか昔から続いています。これは、午前4時過ぎ、子供たちが「起きよ、起きよ」と戸を叩きながら回るお祭りです。これは、東征を控えた神武天皇の出航が早まり、植戸を叩きながら慌ただしく送り出す様子が伝承として残され、祭りになったと言われています。
また、大阪府泉南市にある「男の神社」にも、神武天皇にまつわる興味深い伝承が残っています。神話では、奈良の大和にやってきた一行が敵の攻撃を受け神武天皇の兄が負傷するエピソードがあります。実はこの神社には、その兄の手当てをした村人の伝承が残っています。
奈良での戦いに敗れ、負傷した兄を乗せた神武一行は、船でこの地域に上陸、その際に、神武天皇の兄の右側で手当てした者の家を「右座」、左側にいた者の家は「左座」と名乗ったという言い伝えが残り、これらの伝承や遺跡以外にも、東征のルートのほぼ全ての地に「神武天皇がいた」という記憶が、古くから神社や伝承、神事、祭りなどに「完全」な形で無数に残されています。
もし神武東征が「架空の物語」だとしたらこれほどまで津々浦々と地元の人々が記憶し、伝承として残るものでしょうか。
そして、神武東征の痕跡でないとしたら、これらの伝承や遺跡をどのように解釈すればよいのでしょうか・・・

 

② なぜ、神武東征の経路だけに共通する「遺跡」が発見されるのか?
神武東征と一致する不思議な事実はそれだけではありません。

この分布は、弥生時代の中期から後期(前1世紀から後3世紀後半に推定)にかけての高地性集落の分布です。高地性集落とは古代日本の集落形態の一つで、高い大地や山頂に防衛的あるいは畑作農耕を営む目的で形成された集落です。この分布の不可解なことは、この時代の高地性集落が瀬戸内から大阪湾周辺、さらにはなぜか紀伊半島をぐるっと回って熊野あたりまで点々と残っていることです。この遺跡の分布、何かを彷彿させないでしょうか?九州から瀬戸内海を経由し、奈良に攻め込んでくる「神武東征軍の街道ルート」と、見事なまでに一致しているのです。
一体なぜ、神武東征と同じ時代に、同じ舞台でこれらの高地性遺跡がみつかるのでしょうか。奇妙にも一致するこれらの遺跡の数々は…神武東征の現実性を示唆しているのでしょうか?

 

③ 宮崎と奈良を繋ぐ二つの皇居軍跡…神武東征の痕跡
さらに、宮崎にある皇宮神社と呼ばれる神社を紐解いていくと、興味深い新事実が浮かび上がってきました。実はこの皇宮神社は「神武天皇の皇居跡」とされる神社で、地元では「皇宮屋(こぐや)」と呼ばれ、神武天皇は15歳で皇太子になると45歳で東征を始めるまで、ここに住んだと伝わっています。

 

同神宮の宮司はこのように言います。「この皇宮神社付近には古代から集落ができていたことがわかっています。稲作に適した土地で、大農園を造られたことが、ここに皇居を構えられた理由でしょう」また、宮崎県立看護大の大舘真晴准教授はこのように言います。
「ここに皇居があったことを端的に示すのは「宮崎」という地名です。宮の崎とは、宮殿の前とか宮の前とかを示す名前です。平安時代の古文書には『宮崎の郡』という表現が頻繁に出てきます。古代にはすでに、重要拠点としての認識があった土地だったことは間違いありません。
驚くべき新事実はこれだけではありません。

さらに近年、宮崎を出発した神武天皇が最終的に辿り着き、日本最初の国家を建国したとされる奈良盆地にも巨大な都跡が発見されたのをご存知でしょうか?
纏向遺跡と呼ばれる、3世紀初め~4世紀初めごろの遺跡です。歴史学者たちの度重なる調査によると、遺跡の範囲は東西約2km・南北約1.5kmにおよび、その面積は3k㎡に達しており、
まさに広大な古代都市の全貌が浮かび上がってきました。さらに驚くべきことに、その中に3階建てのビルに相当する20数本の柱の跡…王の皇居らしき巨大な建物跡も見つかっており、まさに相当な権力者がこの地で国を作ったことが伺えます。この纏向遺跡の不可解な点は。それまでの奈良は弥生時代に過疎地域だったにもかかわらず…突如として古代都市が形成されたことです。

 

 

 

一体この突如現れた広大な遺跡と、そこに位置する王の宮殿らしき建物跡は何を示すのでしょうか? そして、東征前の神武天皇がいた宮崎に伝わる皇居の伝承と東征後の拠点となった奈良で見つかった巨大な遺跡は何を意味するのでしょうか?
九州の宮崎にあった都を出発し、東征してきた神武天皇が奈良に辿り着き、ここに都と宮殿を築いたのでしょうか?  もし、戦後の学者が言うように、神武東征は「架空の物語」である。と考えていれば、これらの謎の答えは見つかりません。
残念ながら戦後の歴史学者によって、神武天皇の建国の歴史は一方的に否定され、もし、戦後の学者が言うように、神武東征は架空の物語であると考えていればこれらの謎は見つかりません。
しかし「神武東征」が実際の出来事だという前提のもと、建国の歴史を丁寧に読み解けば、見える絵柄はがらりと変わります。
東北大学名誉教授 さらに 日本国史学会 の会長を務め、書籍「神武天皇の真実」の著者でもある、田中英道教授はこのように語ります。
「残念ながら、戦後の歴史学者によって、神武天皇の建国の歴史は一方的に否定され、戦前まで当たり前のように教わっていた建国の歴史について私たちは知る機会を奪われました」

 

その代わり、今では必ず学校教育で「卑弥呼」や「邪馬台国」について教わるようになりました。
その理由は単純です。『神武天皇は実在しなかった』と、日本建国の歴史を否定したい彼らにとって唯一すがるものは中国の歴史書『魏志倭人伝』以外にないからです。』
現在、学校で使われている歴史書は、「魏志倭人伝」の内容をもとにして中国王朝への臣下の礼や「邪馬台国」による中国への朝貢などまるで古代の日本は中国の属国だったとアピールするかのように、古代中国の関係から語られ始め天皇の血筋とは関係のない「女王・卑弥呼と邪馬台国」がまるで日本の起源かのように訳されています。そこには戦前まで教科書に載っていた初代・神武天皇の名前すらなく、神武天皇による建国の歴史については一言も触れられていません。
しかしそもそも『魏志倭人伝』の著者「陳寿」という中国人は、実際に日本を見たわけではなく、伝聞の話しを書いたに過ぎません。日本で『卑弥呼』の痕跡は一つも確認されておらず、卑弥呼・邪馬台国の存在自体、信憑性が低いのです。

日本の歴史学者は、「日本書紀」や「古事記」という日本の立派な歴史書を無視して、
『卑しい巫女(卑弥呼)』「邪悪な国(邪馬台国)」などと他国が侮辱的に書いた歴史書を一心不乱に研究している酷い状態です。そのせいで子供たちが本当の日本の建国史を学べていないのです。そして田中教授はこう続けます。
「確かに、記紀は、神武天皇が即位してからずいぶん後に書かれた書物であるため、どうしても記憶が薄れると同時に、記録の調整が必要になり、不正確な部分もあります。しかし、遺跡や遺物などの考古学的発見と、神社や伝承といった現代に残された記憶とをしっかりと結び付ければ、建国の物語は“実在した史実”をもとに記述された日本の正史である、ということは明らかです」「大事なことは、記紀に書かれていることをそのまま読むのではなく不正確な部分は考古学や科学的な根拠をもとに修正し、さらにそこに解釈を与えることで『現実の歴史』として描き出すことです」それこそが今の日本に求められる歴史家の役割であると言えます。当時の日本人が彼らをどのように評価していたのか、おのずと浮かび上がってくるのです。
現在、日本は「建国」の記憶を失ったまま、歴史を刻んでいます。どの国も、自国の建国の経緯と精神を知り、当たり前のように教科書で教わっていますが、日本では多くの国民が建国を成し遂げた自国の初代天皇すら知りません。
もちろん建国記念の日に建国を祝う国民も少なく、自国がいつどのように誕生したのか説明することが出来ない状態です。

日本青年会議所(JC)の調査によれば、日本建国の日を知っている日本人は2割未満しかいなかった一方で…日本在住ではあるものの、中国人は100%、米国人は90%以上が自国の建国・独立の日を正しく答えられたそうです。
むろん 教科書で建国について一言も説明されていないので、しかたがありません。
日本は神武天皇の建国から2600年以上、初代・神武天皇から今の天皇陛下にまで126代にわたり、伝統の系譜が繋がってきたことのありがたみを感じることでしょう。
正しい建国を多くの日本人に知ってもらい、日本を誇らしく思える人が増えることで、それが子供や孫にも伝わり、失われた日本国民の正史を取り戻すため未だに論争が続く『神武天皇』の正体について田中教授が明確な結論を導き出し、“新説”をもって解明しています。

『真・日本建国史』
次回もお楽しみに。