何故皇室は途切れなかったのでしょう?

天皇を守り続けた密約の存在

土師墓古墳(田中教授は箸墓古墳は土師墓古墳の間違いと見ています。)
土師氏という有能な建築士の古墳であると。

箸墓古墳は、奈良県桜井市箸中にある最古級の前円後方墳(前方後円墳)。3世紀初頭に造られたもので、墳丘長278m。高さ30m。奈良にある古墳時代前期初頭の大和(おおやまと)古墳群の一つ。纏向古墳群を代表する古墳。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であると定めている。田中教授は第10代崇神天皇の墓であるとの見解を示しています。

日本書紀 巻第十 応神天皇 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)

十四年春二月、~(中略)~この年、弓月君が百済からやってきた。奏上して「私は私の国の、百二十件の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているのでみな加羅国に留まっています。」といった。
そこで葛城襲津彦(かずらきのそつひ
こ)を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年たっても襲津彦(そつひこ)は帰って来なかった。
~(中略)~八月、平群木宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿祢(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して、襲津彦(そつひこ)が長らく還って来ない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って討ち、その道を開け」といわれた。木くの宿禰(つくのすくね)らは兵を進めて、新羅の国境に挑んだ。新羅の王は恐れてその場に伏した。そこで弓月の民を率いて。襲津彦(そつひこ)と共に帰ってきた。」

 

これだけ多くのユダヤ人系の人たちが入ってくると、土木、灌漑、様々な技術を大規模に移入することで、応神天皇が彼らに非常に貢献したことにより更に大きくなり430mという巨大なお墓となった。

その後の仁徳天皇陵はさらに大きくなり、絹を仁徳天皇に差し上げる時に渦になるような量を送り、仁徳天皇は非常に喜ぶわけです。だから太秦の土地を与えたのです。

 

ユダヤ人秦氏が大活躍します。皇居が秦氏の土地の上に造られる。(皇居が秦河勝の土地となる)それだけユダヤ人の貢献に役立っている。
このようなことは戦前は言うことが出来なかった。戦後は左翼系の人たちは貶すだけであまり天皇を認めようとしないため、天皇の歴史の研究が進まなかった。

今は、単なる神格化するだけではなく事実の歴史として天皇家を捉えようではないかということを田中教授たちは目指しておられます。それが今日まで続いていることを確かめることが出来るのである。
単なる振興だけではなく、誰が貢献したか、一神教を捨てて、しっかりと根ずいた人たちがいるということを、一体日本にとって何が重要なのかを察知した人たちである。

これが天皇を中心とした日本の歴史を作っている大きな要素であり、そこにユダヤ人たちがいたということである。

このことは世界の歴史を考えると非常に重要なことである。
この情報は全世界のユダヤ人たちに伝わっている気がする。126代も天皇制が続いているということは日本だけで、それを外国が攻めようと、モンゴルが一度来たことはありますが、ヨーロッパは来ていない。

ヨーロッパが来ないということは、来る機会はあった。16世紀、20世紀 スペインが来る可能性が十分あり、現在も太平洋戦争と言われるのもアメリカが天皇をいくらでも断罪する考えがあったのである。しかし何故それがなされなかったのか、今もちゃんと残っている。

その幸運はやはりユダヤ人という存在があるからであり、日本にいたということを知っている誰かがいたということが、日米戦争の最大の密約(田中英道師著)。いつの間にか密約があったということが(出雲大社も鹿島神宮も天皇が居られたところが全て守られている)
最近3.11の地震でやられましたが、戦争の時はやられていない。

それはこの秦氏の存在があったということが十分考えられる。それは語られていないし、彼らも語ろうともしない。しかし力をもってやっている。そのしぐさは説明できる。

それはユダヤ人の存在が日本の中にあり、隠れた形、あるいは語られない形の密約があったから・・。                田中英道師より

まとめ

・箸墓古墳は土師墓古墳の間違い

・土師氏は有能な土木建築士で、ユダヤ人のフリーメイスンも有能は石工職人

・日米大戦でも日本の歴史的な神社、都市は破壊されておらず、密約があったとしか思えない。