崇神天皇陵「前方後円墳の謎」

崇神天皇陵

第10代崇神天皇の陸墓。奈良県天理市柳本町にある墳丘長は242m、周壕を含めた全長は360m、 高さは後円部31m、前方部13.6m。4世紀全半に造られたと推定されています。

第10代の崇神天皇のお墓で、始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)として神武天皇と並んで、はじめて大和の国の天皇の名称がついております。

神武天皇陵は242mですが、箸墓古墳は280m以上あります。崇神天皇は前回ご紹介させていただきました纏向遺跡という旧都と言ってもよい都をお造りになったことが考えられます。        箸墓古墳は最初の大和王朝のお墓で、それが倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)という天皇の皇女のお墓ということに決められておりますが、田中教授は疑問を呈しております。

現在、箸墓古墳は非常に荒れてしまっております。残念ながら宮内庁が認定した天皇陵とは違い、残念な思いをしておられます。田中教授は箸墓古墳が崇神天皇のお墓ではなかったかと推定しておられるのです。

しかし、このようなお墓の認定は江戸時代末から明治にかけて行われたもので、必ずしも厳密な研究と議論の上に造られたのではないと教授はみております。纏向遺跡というキュートな形の中にある古墳が多分崇神天皇のお墓ではないかと。

これについてもこれからしっかりと発掘など調査をして考古学的な研究をしますが、やはりこれが正しいような気がしますとのことです。

すると、こちらは誰のお墓かと言いますと、天皇家のお墓であることには違いありません。多分、崇神天皇の皇子のお墓ではないかと教授は推定しております。

ここは一番高い所に水を湛えており、非常に美しく、お墓は東を向いていることは確かです。やはり太陽が昇る方向に円の方が向いていることに一貫しているのです。

ヤマトという国が多くのお墓と都が考えられる場所があるということは、彼らが皆、東から来ている人たちが中心になっていることを意味しております。

石上神宮(いそのかみじんぐう)や春日大社にしても、すべて東国の鹿島神宮や香取神宮の神々がみな同じ神として来ており、物部氏も香取神宮に依拠した氏族です。このような説は多くは語られているわけではありませんが、これは新しい説として認知されるべきと思います。

つまり、あまりにも西に傾き過ぎ、すべての歴史が西にあるかのように言われ過ぎております。さらに、朝鮮や中国からの影響というようにも思わされてきましたが、そうではなく、縄文時代の人口は東の方がはるかに多かったことは何度も言っております。日本全体が新しい説により古代史を作り上げていることが感じられます。

蝦夷(えみし)とか蝦夷(えぞ)と言って東が排除されるという歴史や、さらには富士山が全く出てこないなど、記紀に現れないそれらを補うことによって日本の歴史が成立するだろうと田中教授は述べられております。

この皇子のお墓の向こうにある伊勢神宮は東に向いています。遺跡を観るたびにこのようなことが分析できます。

すでに規整されたお墓を貶すわけではありませんが、この前方後方墳(田中教授は前円後方墳と言っています)は、天と地が結びついた一つの形として、円が太陽、後方墳が大地であり、太陽と大地が結びついていることで、日本全体の図像として考えられるわけです。そしてこれが一貫して皇室関係の古墳に見られることは、日本のある種の一貫した形が示した思想であると思います。

次回は「神話から読み解く石上神宮と日高見国との関係」です。お楽しみに。