神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その⑤

15、石切箭神社(いしきりつるぎや)

吉備を出発すると河内の国、今の大阪府東部の白方の津に上陸、西から大和に入ろうとします。

石切劔箭神社(いしきりつるぎや)神社の祭祀は、代々、木積(こづみ)氏が務めておりました。

木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の、最有力氏族のひとつ(穂積)から転じたものとのことです。そして物部氏は石切劔箭神社の御祭神である饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫にあたります。

(石切劔箭神社より)

神武天皇と布都御魂(フツノミタマ)の劔

鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、神武天皇は日向の高千穂から東へ侵攻を続けていました。河内に上陸し、現在の石切霊園のあたりから大和へ向かう神武天皇の軍勢を見て、長髄彦(ナガスネヒコ)は「平和で豊かなこの国を奪われてなるものか」と、戦をしかけます。

 土地に詳しく勇敢な長髄彦の軍勢に皇軍は総崩れになり、退却を余儀なくさせられます。哮ヶ峰(たけるがみね)の麓の高庭白庭の丘に兵をまとめた神武天皇は、かたわらの巨石を高々と蹴り上げて武運を占い、また高天原の神々をこの地に招来して祈りを捧げ、敵味方なく戦死者の霊を祀りました。

 神武天皇は、「自らが日の御子であるのに、日が昇る東の方角に弓を引いたのが誤りであった」と考え、熊野から大和へと、日を背にして入ることにしました。  

ところが熊野の女王、丹敷戸畔(ニシキトベ)の軍から毒矢が放たれ、皇軍は一人残らず気を失い、全滅の危機にさらされます。

そこへはせ参じたのが、かつて豊前の宇佐で饒速日尊と別れて熊野に入り、高倉下命と名を変えた天香山命(アメノガクヤマノミコト)でした。高倉下命(たかくらじのみこと)が布都御魂(フツノミタマ)の劔を献上すると、不思議にも熊野の荒ぶる神々はことごとく倒れ、それまで倒れ伏していた皇軍も皆生気を取り戻しました。こうして再び、大和への行軍がはじまります。                       神話「フツノミタマの劔」(石切劔箭神社より)

この戦いで兄彦五瀬命(ひこいつせのみこと)が重傷を負ってしまいます。

16、枚岡神社(ひらおかじんじゃ)

創祀

枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3年前と伝えられています。
神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(アメノタネコノミコト)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀とされています。

※皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。

御祭神

主祭神として祀られている児屋根命(アメノコヤネノミコト)は、「日本書紀」神代巻に「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)はその后神です。
経津主命(フツヌシノモコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)は、香取・鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。

神武御東征(じんむごとうせい)

神武天皇(神倭伊波禮毘古命:カムヤマトイワレビコノミコト)は、日本の国を治めるため、九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。

これを神武御東征といいます。浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻止しようと戦がおこってしまいます。

思うように進むことができないばかりか、兄である五瀬命(イツセノミイコト)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら日に向かって敵を討つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。

この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。

時の有力者と枚岡神社(御神徳記より)

堀川天皇  寛治5年(1091年) 8月12日行幸 御馬・御幣・御太刀 奉納
平清盛   永萬元年(1165年) 神馬・御幣 奉納
源義経   承安元年(1171年) 太刀二振奉納
源頼朝   建久元年(1190年) 御剣・砂金奉納
足利尊氏  暦応元年(1338年) 宝物奉納
楠正行   正平4年(1349年)1月2日 太刀・物具献納
関白近衛前久  天正11年(1583 薩摩下向の途次参拝
辰輸「すすき川 近き衛のそれならて 身は百敷の 遠津嶋守」 等
豊臣秀頼  慶長7年(1602年) 行合橋改修・擬宝珠奉納
慶長10年(1605年) 本殿建立、釣燈籠奉納(桑山重正奉行)
後陽成天皇 短歌献納
関白太政大臣近衛基熙
   「ひらおかに 天下ります神ならば 民くさかるる あわれおばしれ」

次は、男神社(おの神社)です。お楽しみに