山幸彦が祀られている鹿児島神宮

 鹿児島神宮にやってきました。

写真:ウイキペディアより

大隅国一之宮。邇邇芸命の子であり、神武天皇の祖父、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/山幸彦とその妻、豊珠比売命(とよたまひめのみこと)を主祭神とする。鹿児島県霧島市隼人町字内にあり、創建は遠く神代。また八幡大神・応神天皇をお祭りする正八幡宮としても栄えました。

現在の社殿は1756年(宝暦6年)、島津氏24代当主、薩摩藩第7代藩主の島津重年(しげとし)公により造営されました。

山幸彦は二代目で、ここにかなり長く居られました。

 

り針を無くして山幸彦が困っていたところ、塩土老翁(しおつちのおじ)が助けて、釣り針を探してくれます。
それを海幸彦に返して、弟の山幸彦が勝ってしまう。ここに象徴的な日本の神話の物語があります。
つまり、海からやってきた人たちが山に登る。これは後になって結局、日高見国が船でやってきて、この鹿児島に着き、そして倭(やまと)に行く・・
つまり倭というのは山幸彦。そういう過程をここでも見ることができるのです・・と、説明されます。

日本は海と関係が強い

この鹿児島神宮もそうですが、海に近いわけです。
日本は、海との関係が強いということを語っているのです。
この鹿児島神宮は、鹿島から鹿児島へという日高見国から上陸した人たちがここにいる。そしてここに地盤を造った人たち、三代目の神武天皇たちが東征をするという形になっています。

この鹿子島神宮で頂いた由緒書きを見ますと、面白いことに

「山幸彦」が「彦火火出見尊」(ひこほほでみのみこと)と言いますが、その本名が天津日高日子穂穂手見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)と古事記には記されています。つまり、日高と記されているのです。従って、これは顕かに日高見国から来たことを示しているだろうと思います。

従って私たちが考える日本と言うのは「大倭日高見国」でありました。この日高見国ということを誰も説明しなかったのですが、まさにこれが高天原と言い、そこが日高見国であったということが、これで理解できるわけです。と。

更に面白いことに

三代目までは170万年過ごした」という不思議なことが古事記に書かれています。結局、海神国(わだつみのくに)に行ったと記されていますから、なが~~い年月が経ったということの説明かと思いますが、これはちょっと非現実的な年代ですから、やはりこれは「この地に長く居た」ということを示していると思います。

さらにこれは邇邇芸命(ににぎのみこと)と饒速命(にぎはやのみこと)が兄弟であると記されていますので、饒速命が倭に最初に天孫降臨をしたのかもしれないということを示唆するわけです。

いずれにしても、この鹿児島神宮は山幸彦が来られたということで、私たちも、ここからある意味で神武天皇の祖父になるわけですが、それが日本を造った倭に行かれて東征されたことを、非常に個人的(田中師の母方の系統が隼に居られた)にも、感慨深いところがありますと仰っておられます。

神武天皇の系譜

  • 天照大御神
  • 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
  • 邇邇芸命(ににぎのみこと)
  • 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)/ 山幸彦 → 神武天皇の祖父
  • 鸕鶿草葺不合尊 (うがやふきあわせずのみこと)
  • 神武天皇

菊の御紋と神話の関係

菊は中国から来た花で、奈良時代から来たと考えられます。

皇室の御紋として今は定着していますが、当時としては相応しくなく、これは太陽ではないかと思われます。

太陽を表わすということは、日高見国の天照とも関係しているわけで、もともとここ鹿児島神宮は日高見国から来た人たちが定着した神宮です。

その印が太陽なのです。

実を言うとエジプトにも、シュメールやいろいろな所でこれとそっくりな御紋があります。それは皆、太陽なのです。

花弁が16枚ありますが、現実の菊の花びらは16枚もありません。太陽の菊の御紋という由来を示していると思います。鹿児島神宮の御神前にもこの御紋があります。

太陽ということを出そうとしない傾向

「大倭日高見国」という名前の日本が倭の方だけに限定し始めたというのが奈良時代以降だろうと思います。従って、日高見国と言うのを忘れようと、あまり太陽神が出てくると、天照、アマテルシー、お天道様が出てきて東を強調することになるのであろうと・・ところがこの鹿児島神宮にはちゃんと太陽的な表現が感じられるので注目すべき神宮と思います。と田中教授の見聞です・・・

 

      

 

次回は「鹿児島神宮の屋根に現れる歴史の真実」エジプト・シュメールとの比較で読む天孫降臨の足跡」です。お楽しみに!