世界遺産になった”応神天皇陵” その②

世界遺産1位 「仁徳天皇陵」

世界遺産2位 「応神天皇陵」

前回は、この巨大な応神天皇陵を誰が何のために造ったのかについてお話させていただきました。

今回は、世界遺産になった天皇陵を世界の人々が納得するようなもとの原型に戻すように、建築家もがんばっていただきたいとの田中教授の願いも記します。

大和の日本を創り変えていく、これが応神天皇が行われたことと思います。人々に応神天皇の功績を知らせる必要があります。と同時にユダヤ人秦氏が持ってきた巨大な財力を、あるいは彼らが稼いだ日本における富をつぎ込んで造ったのがこの建造物であるということです。

これからの課題は、仁徳天皇、応神天皇、1位・2位共にその原型を世界の人々に示すことは当然の義務です。森でこんもりしている形だけでは建築物の原型が分かりません。これでは世界の人たちが満足するはずはありません。この山の樹を刈り取って原型に復元すれば巨大な建築が現れます。これを復元すべきであると田中教授は言います。

大林組はおそらく、今の感覚では、1千億~2千億というお金では足りないくらいかもしれませんと言われます。しかしそんな巨額なものをお墓のために出すという人がいるのか。それこそが、彼ら(秦氏)の感謝の気持ちの現われであるのです。当時は灌漑設備をたくさん造っています。秦河勝は「河に勝つ」という名前ですから、氾濫する川を見事に変え、京都の町を造ってしまいます。それが秦氏で、それをここでもこのような立派なお墓を造ってしまうのですと。4世紀末のことが、このように遺っていますので文献などはいらないのですと。

仁徳天皇陵が1位、応神天皇陵が2位です。この世界1位・2位の巨大天皇陵というお墓を、これから地元の人を含めて元の状態に戻す作業を、長期にわたっても構わないのでやってほしい。それこそ日本の力です。日本という国は現代の建築が立派である云々ではなく、この時代から見事な建築を行っていた。それは日本人が働くことにより、はじめて実現したのです。孜々として働く人がいなくてはいけないのです。簡単にできることではありません。それは構想力と労働力そして支える財力が総合しないと出来るわけがありません。それは常識です。文献がないとは関係がありません。立派な建造物が物語っているのです。その物を分析し、そこから考えることがフォルモロジーなのです。

これを造った日本人、これを天皇のために造ったということも非常に誇り高い民族であることが分かります。ユダヤ人の技術をすぐに理解して造ったのは日本人であるのです。それは皇祖霊信仰といって、天皇に対する深い信仰の念があったからこそであり、これを日本に来た土師(はじし)が古墳を造ったことは日本書紀にも書かれていますと。

実を言うと、最初の大きな古墳「箸墓古墳」は第十代の崇神天皇のお墓であると同時に「箸墓」というのはちょっとおかしいのです。百襲姫命(モモソヒメ)の死を悼んで付けられたのではなく、恐らく土師氏の(はじ)が(はし)とも読めます。
土の師は大工、土から建築物を造る技術を持っている人たち、それが土師氏ですから、土師氏が人々の能力を結晶化してこれを造ったのです。その労働力の中に応神天皇に対する深い敬愛の念があります。それ以後、応神天皇陵が八幡神社(はちまん)、八幡神社の主となられます。全国にたくさん存在しますが、八幡神社が祀っている神が応神天皇なのです。つまり秦氏の神社が応神天皇を祀っているのです。応神天皇が秦氏を助けたから、正に秦の始皇帝の先祖たち(ユダヤ人)を、そしてその子孫ですから、ローマ帝国から最後にやってきた国は日本でしたから・・・。

新 日本古代史(扶桑社刊 田中英道著)にも載っています。

日本人が理解し、それを評価することにより、はじめてこれが生きてきます。そして同時に、できるかぎり元の原型に戻すように建築家も頑張っていただきたい。ユダヤ人たちから基金を集めても好い。彼らが指導した部分もありますから。是非にも世界遺産を機にこれを復活する方向にいってもらいたいとの田中英道氏のお言葉を最後にこの項を締めさせていただきます。

 

★土師氏(はじし)
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代に、古墳造営や葬送儀礼に関わった氏族である。