神武東遷(宮崎~橿原市までの神武天皇の歩み)その③

8、神武天皇社

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)が滞在した地としてお社が建てられ、祀られてきた神武天皇社、度々の兵火により焼失を繰り返し、平成12年に再建されました。

9、岡湊(おかのみなと)神社

昭和20年米軍の爆撃により、神武天皇社 社殿が焼失した際、御神体が移されたのが岡湊神社、今もなお祭祀は続けられています。

10、岡田宮(おかだぐう)

神武天皇が主祭神として祭られている岡田宮、古事記にはカグヤマトイワレビコが1年間滞在されたと記されています。日本書紀には仲哀天皇(チュウアイテンノウ)8年、岡田宮の御祭神である岡県主(オカノアガタノヌシ)、その祖先の熊鰐(クマワニ)や 仲哀天皇(チュウアイテンノウ)と神功皇后(ジングウコウゴウ)に忠誠を誓ったことが記されています。

御信奉の冠状のさんれいは、大和朝廷から5世紀ごろ加持されたと言われています。

11、多家神社 埃宮(えのみや)

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は東に進路を変えて安芸の国、今の広島県を訪れました。

この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝えられています。

『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かむやまといわれびこのみこと)が七年坐すとあります。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとあります。

この多祁理宮(たけりのみや)あるいは埃宮(えのみや)という神武天皇の皇居が後に多家神社となりました。

この祠には下記の由緒が記されている

平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社と崇められました。

当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命(あきつひこのみこと)ほか六柱の神々でありました。

 

中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えませんでした。

そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興となりました。

明治7年県社となり、その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀されました。

大正4(1915)9月、社殿を焼失しましたが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備が整いました。

なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重であり、現在、県指定文化財となっています。
以上、多家神社埃宮(えのみや)のHPより、参考にさせていただきました。

次回は(12)吉備(岡山県)です。お楽しみに