ヤマト王朝発祥の地・纏向遺跡

ヤマト国が成立する時に、一番重要な纏向遺跡が恐らく最初の都市であったのではないかと田中英道師の感動的な解説をもとに記させていただきます。

ヤマト国は崇神天皇が居られたところです。それは神武天皇と重なってくるのですが、神武天皇は紀元前660年という縄文・弥生時代という古い時代です。                           

橿原神宮の方に多くの遺跡が出土しているために記憶がそちらに集中していますが、大和国の方が最初の都市と言ってもいいと思います、と。

2キロ四方ぐらいの都市ですが、三輪山という山の信仰が感じられます。              ヤマトとは大和と書きますが、 本来は「山の人」なのです。   

ここには東海から来た土器が半分も占めており、すべて東から来ている人たちが主流なのです。

日高見国・高天原系の人たちが、この大和に移ってきたという歴史的な過程がある筈ですと分析され、崇神天皇がここで都市を造られたのですと分析します。

 

崇神天皇と神武天皇も同じく、始馭天下之天皇「ハツクニシラススメラノミコト」という同じ名前を付けておられます。それは、神武天皇が国を創ったのは饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を重ねているわけで、ここでは正に崇神天皇が「ハツクニシラス」として国を統治され、皇命(スメラノミコト)は天皇であり、この地がその場所であると説明されております。

                                               名前が箸墓古墳というのは、とある命(ミコト)の暴力により皇女の性器に箸が刺され亡くなったという謂れの悲劇的な話で、皇女の墓として名付けられましたが、実は、このお墓は280mの日本で最初の前方後円墳(田中教
授は前円後方墳と呼んでいます)であり、崇神天皇のお墓なのですと仰っておられます。

この地が規範となって前方後円墳が、日本のあちこちに造られていきます。

一方、ここには多くの渡来人たちが来ています。         後に日本人の3人に1人は渡来人で、更にその渡来人の3人に1人は秦氏系であり、これは西洋系なのだそうです。

西洋系とは、長い絹の道を通ってきたユダヤ人系であり、この人たちが非常に高い文化を、しかも
技術的に大きなもの、巨大なお墓を創る文化を持ってきたのです。箸墓川に運河を造り、それで沢山の物を運んでくる、この頃は船が充実していて多くの機材や土器なども運んできたと思われます。

この纏向遺跡は日本の最初の首都であったと言えます。これらは山の麓にあり、ヤマト民族と言えます。この大和民族がここで発祥したことは、その後の歴史の重要な原点であります。

もう一つ昔は日高見国があり、その人たちが移動してきた、更に渡来人が来て、その盆地の中に国づくりを行い、ある意味、防御のためであったのだろうと想像できます。

埴輪を見ていると、人だけでなく馬もいます。馬はもともと日本にはいない動物でした。彼らが馬を連れてやってきたのです。朝鮮よりもっと遠く、ユーラシア大陸を通ってやってきた彼らが馬を連れてくる。埴輪になって立派な馬が登場する。

馬の埴輪 に対する画像結果.サイズ: 129 x 170。ソース: webarchives.tnm.jp

道路・運河・巨大古墳・・・古代大都市は彼ら(馬共々)の協力なしには出来なかったことなのです。とのことです。

桜井市立埋蔵文化財センター
奈良県中部に位置する桜井市は、大和王朝発祥の地として纏向遺跡、三輪山、箸墓古墳など数多く文化財を有していることから、桜井市立埋蔵文化財センターも大和王朝の歴史を知る上で重要な施設となっています。この度の撮影の協力施設となっています。

次回は日本初の巨大古墳「奈良の箸墓古墳」について
お楽しみに❣