1、出会い

Pocket

1、出会い

009.jpg SIZE:600x250(30.5KB)

綾部市役所定住安定部部長の西山隆夫と、就活浪人・大橋小太郎との出会いは劇的だった。
 JR常磐線・北千住駅構内の転落事故で、共に、幼児と視覚障害者を救出した仲だからだ。
 西山は、都庁内で催された全国市町村活性化会議に出席した帰路、北千住駅構内でこの事故に遭遇している。
 まだ本格的な通勤のラッシュアワーには早い時間帯だったが、ホームは上下線とも同じように混んでいた。叔父の住む我孫子に向かうために地下鉄日比谷線から乗り換えた西山は、やっと常磐線の下り線ホームに出たところでこの事件に巻き込まれたのだ。
 コツコツと床を叩く音に気づいて、電車を待つ西山が振り向くと、すぐ背後を茶の洋服に黒ズボン、下駄履きという視力障害の初老の男が、視力障害者用の突起のある黄色い通路を杖で探りながら通り過ぎるところだった。
 突然、女の悲鳴が上がった。
 見ると、母親の手を離れた三歳ほどの男の子が嬉々として人ごみを走り、ホームの端で白い杖を持つ男の尻に激突した。突き飛ばされた形になった視覚障害の男は横によろめいて足を踏み外し、短く叫んでホームから転落して姿を消した。それに続いて、幼な子も落ちかかったが、それを見た瞬間、キャリーバッグを投げ捨てた西山が猛ダッシュで走り、片足を宙に浮かせた幼児をキャッチし、そのまま背を丸めて子供を胸に抱き込み、半回転して線路に飛びみ背中から落ちた。幼児にはケガをさせなかったが受身をとったはずの背中が鉄路に激突して息がつまり、声が出ない。
 思わず目だけで周囲を見ると、西山と同時に線路に飛び降りた若い男が、倒れて顔から血を流している視覚障害の男を抱き起こし、ホームで救助劇の推移を見つめている野次馬の手を借りて男を押し上げ、杖も拾ってホームに投げ上げてから、泣き叫ぶ幼児を抱えたまま倒れてもがいている西山を見た。
「オヤジ、何してるんだ。早くしろ、電車が来るぞ!」
 運転手が駅での異常に気づいたのか遠くで警笛を激しく鳴らしている。もう急ブレーキの効く距離ではない。
 西山が口と背を指差して呼吸が詰まって動けないことを知らせると、それが通じたのか青年が駆け寄って、泣き叫ぶ子供を奪い取ると、素早くホームから手を出して何か叫んでいる母親に手渡し、すぐ振り向いて西山の背後から強烈なサッカーキックで蹴りを入れた。これが効いて西山の呼吸が戻り、二人は上から差し伸べられた数人の男の手を借りてホームに転がり上がった。寸時の差で警笛を鳴らして急ブレーキの金属音を響かせた電車が風を巻いて通過し、ほとんど定位置と変わらない位置で停車した。
 これが瞬時の出来事だったので、駅員が気付いて駆けつけた時には全てが終わっていた。半狂乱だったはずの幼児の母親も、やつれた顔で二人に礼を言うとそそくさと幼児の手を引いて人混みにまぎれて姿を消し、視覚障害の男もいつの間にか周囲の男たちに助けられて移動し、定位置まで進行してからドアーを開いた乗り込んだらしく、そのまま二人に挨拶もなく去った。
 西山の放り出したキャリーバッグを見守っていてくれた中年男性も、西山にそれを戻すと「じゃ」と言って車内に消えた。
 事件どころか、誰もが何もなかったように行動し、周囲はすでに日常の通勤風景に戻っている。これが東京砂漠といわれる都会の生活なのか。西山隆夫は味気ない思いで電車が去るのを見送った。
「おじさん。血を拭きなよ」
 ふと気がつくと、先ほどの青年が汚いハンカチを差し出して、西山の右頬を指差した。
 遠慮するのも気まずいので、借りたハンカチで流れる血は拭き取ったが感染症が気になる。青年がそれを見越して言った。
「大丈夫だよ。そのツラの厚さならバイキンが入ってもすぐ治るから」
 このまま、次の電車に乗るのも何だか気が乗らない。
 右手を口に運んで顎をしゃくり、「やるか?」と西山が誘うと、青年が笑顔で頷き「いいっすね」と応じた。
 西山隆夫はこの夜、千葉県我孫子市に住む叔父の家に泊まることになっていた。しかし、急ぐことはない。下戸の叔父の家の冷蔵庫には、いつ行ってもアルコール類がない。叔父は元大手航空会社の役員でニューヨーク支店長をはじめ世界を股に活躍し、定年後も監査役を務める大物ながら酒一滴もたしなまず、奈良漬けでも酔うぐらいで、とても同じ一族の人間とは思えない。それでも、女性に優しいのは親族間では誰もが知っているから根っからの堅物ではない。育ちのいい佳人の奥方の手前があるから殻を被っているだけとも思われている。
 ならば、ビール一杯だけでも喉を潤おしておきたいと思うのは当然のこと、一人より二人、相手がいれば酒も旨い。青年もアルコールが嫌いではないらしく、西山を旅行者と見抜いたのか「じゃ、おれの行きつけの店で」と、さっさと歩き出している。
「死んだオヤジの遊び仲間が、家族ぐるみで仕事してる小っちゃな飲み屋だけど」
 青年は北千住駅東口を出ると、地元らし慣れた歩き方で行き交う人で混み合う賑やかな商店街を少し歩き、赤提灯の店に入った。
「らっしゃい!」
 その声の調子で常連さんはすぐ分かる。初めての客だと挨拶のトーンに緊張が入るが、明るく親しげに尻上がりのトーンで、店と客との距離感や親密さがすぐ分かる。ここでの青年は明らかに歓迎されている。西山も学生時代から赤提灯は好きだった。黒く油じみた古い縄のれんを肩でバラッと分けて店に入る時の気分は、飽きるほど繰り返しても悪くはない。二人は、先客に少し詰めてもらってカウンターに座った。
 常連だけに気脈は通じているらしく、青年の前にはすぐ球磨焼酎のお湯割りが出た。青年が「おでん」と言い、西山の顔を見て「このオッサンにはモツ煮とブリ大根。マスで灘の冷や、塩を乗せて」
 と、慣れたものだ。西山が驚いたのは、好みがその通りだからだ。
「払いはわしだぞ。倍近く年上だからな?」
「とんでもない。見ず知らずでおごられる義理はないぜ。割り勘にしよう」
「とんでもない、命の恩人だぞ。先ほどは有難う、わしだけじゃない、あんたは三人の命を救ったんだ。酒ぐらいはおごらしてくれ」
 枡酒を西山の前に置いた年配の店主が驚いた表情で、二人の顔を交互に見た。
「へえ? この小太郎が人命救助? まさか?」
「嘘じゃありません。この私が救助された張本人ですからな」
 手際よく仕事をしながら、調理場で働く女房に大声で伝えた。
「おい、聞いたか? 小太郎が人命救助だとよ」
「それは凄いですね。お袋さんも死んだお父さんも泣いて喜びますよ」
「何の取り柄もない一人息子が、初めて人様のお役に立ったってな」
「オヤジさん。いくら何でも、何の取り柄もないってえのは余分だぜ」
「おれは死んだオヤジのだち公だぞ。おまえの母親のことを思うと、就職も出来ねえでバイト暮らしのおまえが情けなくてな」
「だから、ここで働くって言ったじゃないか。募集してるんだろ?」
「ダメだ。早くちゃんとした会社に勤めろ」
「そんなこと言ったって片親で一人息子、地方転勤の多い大会社なんか不利なんだ」
「おまえの押し出しが弱いからだ。大学まで出してもらったんだ。もっと積極的になれ」
「オヤジさん、説経はやめてくれ。酒がまずくなるじゃねえか」
 二人はここで自己紹介をした。西山が出した名刺には、京都府綾部市役所・定住安定部部長・西山隆夫とある。
「名刺はないが、大橋小太郎っす」
「学生かね?」
 この質問は小太郎には辛かった。
 大橋小太郎は、私立の三流大学文学部を出て就職試験に落ち続け、浪人生活もすでに十ケ月になる。母や周囲の人からは励まされるが、学生時代に二年ほど交際していた女友達にも捨てられた。恋人のいない二十三歳の青春は切なくやるせない。なんだか何もかまが嫌になっていて、どこか遠くに行って好き勝手に生きてみたいが母親がいて足かせになる。
 この日もそんな気分で、コンビニのバイトの夜勤明けでひと眠りし、駅まで歩いて下り線に乗り、松戸あたりで一人で自由に羽を伸ばして飲むつもりだったのに、とんだ事件に邪魔されて見知らぬ中年オヤジと飲んでいる。なにもかも天が定めた運命のいたずらなのだ。
 どうでもいい話を肴に飲んでいる時、目の前の五段の棚に陳列された各地の酒の豊富な品揃えに感心していた西山が「あっ」と叫んだ。
「そこにある四合(七百二十ml)瓶の綾小路、これがわしの郷里、綾部の酒だよ」
 店主が素早く、それを取り出して「小分けで?」と聞くと西山が首を振った。
「二人で飲めば、すぐ空になるさ」
「お客さん。それはいけません」
「なぜ?」
「小太郎の予算は千円、これは母親との約束でして。母親と来た時は別ですがね」
「さっき言っただろ。大橋君はわしの命の恩人だからおごりだって」
「分かりました。それなら結構、存分に飲んでください」
「この酒は、若宮酒造自慢の清酒でな、足利尊氏が生まれた綾部市・安国寺の森の伏流水を使ってるんだ」
 西山の飲み慣れた酒を、小太郎も勧められて冷やのままコップ酒で飲んだ。なるほど酒の旨さが五臓六腑に沁みてゆく。
「これはいい。足利尊氏もこの酒を飲んだかな?」
「それは知らん。こんど調べとく」
 旅の解放感でか、西山は大いに語った。故郷の酒のうんちくから始まって、ここからは定住安定部長の独壇場になり、小太郎は、望まぬまま綾部市の発展論や将来の展望、どうしたら過疎化の波を逆行させて外から新住民を招けるか? 「同級生だけど学生時代から天と地ほどの差があった」という市長の受け売りと断って、綾部市の政策から財政、観光客誘致までを西山はとうとうと語った。ただ残念なことに聴客の小太郎は何も聞いていない。ただ綾部の銘酒「綾小路」の旨さだけが頭と体の記憶に残った。しかも「好きなだけ飲んでくれ。市のPRを聴いてくれてるんだからな」、この一言で小太郎の遠慮は百パーセント消えている。これなら少しは綾部市とかの話を聞かされても仕方がない。小太郎は「綾小路」の誘惑に負け「頷きバッタ」に徹して至福のひと時を過ごしていた。