1、綾部の文化ゾーン

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1、綾部の文化ゾーン

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小太郎は書類を入れたバッグを抱え、逃げるように駐車場に急いだ。
車を発進させてから、やっと小太郎は落ち着きを取り戻した。
それでもまだ満腹状態で何となく気が乗らない。
それに、カフェ・プントの出掛けに、綾部資料館への道を聞いたのもまずかった。
女子学生、OL、主婦、老婦人、それぞれが親切に違う道筋などを教えてくれたからだ。
「このまま七十七号線を真っ直ぐ北に走って千百七十四メートルの白瀬橋を渡り・・・」
「橋の下の広々とした河原一面が春には、日本一の菜の花畑になって、いや、二番目かな?」
「橋を渡って最初の信号を右に曲がって・・・」
女子学生の言葉を遮ってタネ馬主婦が叫んだ。
「ダメよ。そこは散歩道だから。その信号を越えて右に総合保険事務所があります。その先の信号を右折して精米所の先をまっすぐ行って、突きあたりを」
主婦らしい生活感のある説明をOLが否定した。
「分かりやすいのは、この道を真っ直ぐ行き、左にマサト電工、その先のT字路を右に曲がるとわたしの行きつけの美容院が・・・」
「あら、わたしもその先の美容室・コマでカットしてるのよ」
その瞬間、タネ馬主婦の顔を睨んでミツエ夫人が言いがかりをつけた。
「道理で最近、あなた達はミラクル美容室に来なくなったと思ってたわ」
これで、ミツエという主婦?がミラクル美容室のママで、店はさきほど口にした大島町にあることも分かった。
そのミツエ夫人の苦情を無視して主婦が続けた。
「そのコマという店を通り越して道なりに行くと久田山に登って、資料館にぶつかります」
「わかりました。でも、ぶつからないように注意します」
その会話を黙って聞いていった老婦人が、呆れた口調で疑問を呈した。
「カーナビとか言われる近代兵器はありませんの?」
「車には付いてます」
それが簡単に使えるぐらいなら、加納美紀秘書課長に言われた時にセットしている。
ともあれ、カフェ・プントを脱出しグンゼを通過して、白瀬橋から由良川の清冽な流れを横目で見下ろし、一キロを越す長い橋を渡り終えると右側に小高い丘が迫ってくる。
そこが久田山、その丘陵部全域が綾部市が誇る文教地区らしい。
十一月中旬にさしかかる季節で小高い山々には紅葉の気配もあるが、広々とした由良川河畔は枯れた草が風に揺れていた。その河原の一部が花園なのか赤や黄の色とりどりの秋の花が、まだ土地に馴染みきれない小太郎の心を和ませてくれる。
信号を幾つか越え、うっかりしてT字路も通り過ぎてから道を間違えたのに気づき、次の交差点の手前で車を停めた。
小太郎がごそごそとビジネスバッグから地図を探していると、いつ現れたか青年が運転席を覗き込んでいる。
「そこは邪魔です。こちらに車を入れてください」
誘導されるままに道路左の、柿の葉が散る駐車場に車を入れると、青年が勝手にドアーを開けて笑顔で「どうぞ」と言う。
駐車場で運転席に座ったまま道を聞くのは失礼だと思うから、地図を持って車から降りると青年が先に立って歩いている。
詳しい地図で説明してくれると思うから、急いで後についてゆくと青年が玄関で靴を脱いだ。
「こちらです。今日は特別に、体験参加の方は無料です」
言われるままに部屋に入ると、四、五人の男女が正座して後期高齢者らしい男性の話を聞いている。
「今、始まったばかりです。どうぞ、お座りください」
言われるままに座ったが、どうも道を聞く雰囲気ではない。
よくは見なかったが、看板には「道」に続いて「センター」とあったから道案内のセンターには間違いなさそうだ。
後期高齢者が小太郎を見て軽く目で挨拶をした。仕方なく小太郎も頭を下げて座り直したが、どうも居心地がよくない。
「この家屋は丹波市の名刹・最明寺の大槻覚心住職のご実家で、空き家になっていたものをお借りしたもので、この家の築七十年は師であるご住職と弟子の私、二人の年輪と全く同じです」
ここで立ち上がれなかったのが小太郎の失敗だった。つい、話の腰を折るのは失礼、と思って脱出の機を逸したのだ。
「大槻覚心ご住職は、座禅を通じて地域の若者たちと交流し、社会とつながりや自立心を養い、就労をも支援する {あやべ若者サポートステーション}の活動に賛同して、この家をお貸しくださいました。ここに集う若者やボランティアと地域の人たちとの交流の場として、今日もこのように有意義に使わせて頂いております。大槻覚心ご住職も丹波市・最明寺において坐禅会を開いており、奇しくも大槻覚心ご住職のお考えが私達と同じ道に通じていたことになります。では、これから始めます。結跏趺坐(けっかふざ)に座り直してください」
小太郎が周囲に真似て胡坐(あぐら)をかくと、後期高齢者の男がスタッフらしい男性に声をかけた。
「町田さん。そこの青年に座り方を教えてあげてください」
いかにも実直そうな指導スタッフが小太郎の脇に膝を落とし、いきなり下にあった足首を持ち上げた。
「痛い!」
「胡坐では片方の足首以下は下になりますが、座禅では両足の足首が上になります。昔の武士の正座がこれです」
「これが?」
「とっさに立てませんから、お互いに不意打ちは出来ません。騙し打ちを避けるために考えた生活の知恵でしょう」
小太郎が座り直したのを見た後期高齢者がおだやかに言った。
「目を閉じて無心の境地になってください。心が乱れると形に表われます。その時は遠慮なく気付け板で肩を打ちます。
「はい。では今から三十分! スタートします」
しばしの静寂の後、一分もしないうちに小太郎の右肩に「ピシッ」と、警策(けいさく)と呼ばれる板が来た。
足が疲れてモジモジしたのが見抜かれたらしい。それからの三十分、散々に打たれたが少しは雑念が晴れて心が洗われたような気がした。それに、何となく満腹感もこなれている。
礼を言って道を聞き、玄関で振り返ると道案内センターではなく、看板には「禅道場センター」の文字が見えた。