5、単細胞

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5、単細胞

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車のエンジンを掛ける前にとりあえず中上専務理事の携帯に連絡を入れてみる。
「終わったか?」
多少、アルコールが体内を駆け巡ったせいか思いがけず専務理事の機嫌がいい。
「天文台で時間が押して、一時間以上遅刻になりますが?」
「その代わり、こっちは一時間以上前から始めてるぞ」
「すぐ行きます」
「いいんだ。あわてなくていいから」
「駐車場に車を入れてから歩いて行きますが、ITビルから東南に五分ほどですね?」
「こっちにも駐車場はあるから車で来い。あず木って聞けば誰でも分かるから」
やはり専務理事は善人だった。少しでも早く店に来て一緒に飲むようにと小太郎に配慮しているのが分かった。
夜道で迷うかと思ったが、飲み屋となると臭覚で探し当てる小太郎の動物的カンで、あず木という店はすぐ分かった。
駐車場に車を入れて表にまわると、木の看板に「魚菜酒房」と小文字があって、その下に、大きく癖のある書体で「あず木」という文字が躍っていた。アルミサッシ使用の日本風引き戸を開けて店に入ると、すかざず「らっしゃい!」と声が飛んだ。
和風和式の居酒屋で、玄関を入ってすぐ脇の小座敷に十人ほどの客がいて、奥のカウンターには七、八人ほどの男女がいた。
「待ち合わせです、商工会議所の・・・」
「二階に上がってください。皆さん、お待ちですよ」
二階に上がると、そこにもカウンター席に客がいて、奥の座敷から女性の声がした。
「大橋さん、こっちですよ」
見ると、西山部長、中上専務理事、加納美紀、神山紗栄子、それにグンゼの勝川部長代理が座卓を囲んでいた。
テーブルの上には、なべ料理や海鮮料理の食べ荒らされた残骸が散らばり、充分に飲んだり食べたりの様子が見えた。
「遅かったな」
と、中上専務理事が小太郎にコップを持たせ、ビールを注ごうとすると神山紗栄子があわてて止めた。
「いけません。大橋さんは車です」
「おう、そうだったな。大橋君、君は好きなものを食べてくれ」
そこで、サイダーとビールの混血児のようなニセビールが運ばれてきて小太郎のコップに注がれた。
「車は駐車場に入れましたから、ぼくにも本物のビールを・・・」
そんな声は、ボルテージの上がった他の五人には通じない。
「じゃ、大橋君も揃ったから、乾杯のやり直しだな」
西山部長が「カンパイ!」と叫び、五人が旨そうにビールを飲み、小太郎だけがニセビールに口をつけ顔をしかめた。
西山部長が、小太郎の肩を叩いた。
「大橋君がいてくれて助かったよ」
「なにが?」
「いつも車だから飲めないのに、今日は運転手つきだからな」
「どういう意味です?」
「明日の朝早く、金比羅祭りの取材だろ?」
「それと車がどう関係あるんですか?」
「今夜、車でわしの家まで乗せていってくれれば取材先まで案内する」
「取材は明日の朝だけど?」
「祭りは夜から始まってる。なにしろ夜中にこっそり行われていた祭りだからな」
「夜中に?」
「そうだ。百姓一揆で勝った農民の金比羅様へのお礼に千年間続けるお祭りで、あと七百年は続く」
「おれは生きてないな」
「そこまで取材を続ける義務はないよ」
「で、今夜、その現場に?」
「そこで大橋君は徹夜して朝まで取材、明朝はわしも付き合って一緒に出勤してくる。いい考えだろ?」
「悪い考えですよ」
「ともあれ、明日はお神酒が舐められる。若宮酒造の綾小町、特上の吟醸酒だ」
「舐める? 冗談でしょ?」
「本気だ」
そこに、あらかじめ注文してあったのか、二段重ねの桶弁当を抱えて割烹着の小柄小太りの中年男が現れた。
西山部長が小太郎の前に置くように指示して、ビール瓶を手に空のコップをつき出した。
「社長、いっぱいやろう!」
「仕事中はいけません、腕が鈍ります。ところで、この特別料理はお一人さんですか?」
「飲めないのがいてな。せめて食事ぐらいは奮発してやらんと」
社長と言われた男が笑顔で小太郎を見た。
「お若いのにお酒も飲めないなんて、お気の毒ですな」
特別料理の一言に騙された小太郎は、怒る気も失せ、黙然と弁当を眺めている。
続いて女性店員が赤出しと香の物、メロンの薄切れ、お茶を運んで来て、ついでにニセビールを継ぎ足して去った。
二段重ねを開けると、上段には彩り華やかに鯛や平目の磯踊り、山海の珍味が所狭しと詰め込まれ湯気が出て香りもいい。
秘書の加納美紀が、小太郎を見ながら神山紗栄子にうらやましそうに告げた。
「ここは社長が板長で、この京風お弁当が特別に美味しいのよね」
「私達にはないの?」
「これから、うどんをなべに入れるんじゃない?」
「大橋さんも食べてみて、うどんも美味しいわよ」
これで、遅い昼食で満腹していたはずの小太郎の食欲が一気に高まり機嫌も直った。