1、志賀の七不思議

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第十三章 綾部の春は奇祭だらけ

 1、志賀の七不思議

小太郎は忙しい毎日を過ごしながら徐々に綾部の土地に馴染んでいた。
都内北千住と違って、ここは人情がいいのか市内のどこに行っても気軽に声を掛けられるし、人々は誰もが親切で優しい。
一月末から寒波の訪れで雪は降ったが、春の足音は確実に近づいている。やがて、市内のあちこちの日陰に残っていた雪も解けたが、まだ朝夕の風は冷たい。それでも街ゆく人は厚手のコートから解放されて軽やかに歩いていた。市内のあちこちで見かける梅の木にも蕾のふくらみが芽吹いていた。
春になっても各地の行事は留まることなく続いていて、小太郎の行動範囲も大きく広がっていた。
その幾つかは、小太郎の好奇心を充分に満たしてくれている。
二月に入ってすぐ、いつもの朝会議で小太郎は、中上専務理事からまた祭りの取材を命じられた。
「三日は茗荷祭り、四日は竹の子祭りだ」
神山紗栄子が口を挟んだ。
「三日の夜は大本教の節分祭りもありますね?」
「そうか。大橋君は茗荷祭りとダブルヘッダーだな」
「一日に二か所もですか?」
「もう一か所増やしてトリプルにするか?」
「そんなに、二か所で結構です」
「とにかく、綾部のいいところを充分に知った上で、全国にアピールしてくれ。それが大橋君の仕事だからな」
「茗荷祭りなんて面白くも何ともないですよ」
「世界中のどこにもない茗荷祭りと竹の子祭り、今はもう殆ど残っていない七不思議の二つを取材できるんだ。少しは喜べ」
「茗荷も竹の子もあまり旨くないから嬉しくないです」
「あら、竹の子御飯なんて美味しいでしょ? 茗荷は体にも頭にもいいのよ」
加納美紀の一言に背中を押されて節分の朝、小太郎は、綾部の文化財の一つ「茗荷祭」から参加することにした。
山間部は雪が深いと聞いたが、愛車にはスタッドレスタイヤを履かせているから大雪でも不安はない。
祭りの行われる式内社・阿須々岐(あすすすぎ)神社は、志賀郷(しがさと)地区の金河内町(かねかわちちょう)にあり、本殿と境内の摂社大川神社は京都府登録の文化財で、神社の境内も文化財環境保全区、さらに秋祭の祭礼芸能となると京都府登録無形民俗文化財となっていて超有名、何もかもが文化財なのだ。
小雪がぱらつく風も冷たい節分の朝、小太郎は愛車・バンガードを駆って味方(あじかた)交差点を右折して丹波大橋を渡り、府道八号線を直進して「鳥ヶあさ坪」交差点を右折して府道九号線を北上、ナビに従って物部郵便局先の五叉路を志賀郷方面へ入って、府道四九〇号線を進むと、やがて、京都縦貫自動車道の高架橋をくぐる形でそのまま進み、あやバス「金河内バス停」前を左折して北へ進むと、こんもりした文化財だらけの阿須々岐神社の森が見えてきた。ナビがなければ道が複雑で小太郎では何日走っても辿りつけそうもない。
前日、中上専務理事が言った。
「面倒なら駅前から志賀南北線のあやバスに乗って行け。金河内バス停からすぐだぞ」
なるほど、その手もあったか? と気付いたが、もう神社の駐車場に車は入っている。
市内には雪がなかったのに、阿須々岐神社周辺は残雪がかなり積もっていて履いてきた長靴も半分は潜りそうだ。
それでも、関係者の奉仕でか境内はきれいに雪掻きされていて土肌が見えている。小降りだった雪は止んだ。
祭りは節分の二月三日午前十時三十分から綾部の文化財を守る会幹事で神社総代の梅柿さんという貫禄のある男の司会で始まった。
佐々木宮司、神社総代、自治会長らが次々に拝殿に向って参拝し、神事が進んでゆく。
司会者の説明と商工会議所で聞いた話では、今を去る千四百二十年前、崇峻(すしゅん)天皇の御世に聖徳太子の身内の金丸(麻呂子)親王の子孫・金里宰相が、阿須々伎神社(当時は金宮大明神)に茗荷を植えて国家安泰・子孫の繁栄を祈願したところ、この志賀郷を中心に数々の喜ぶべき不思議な現象が起こったとか。これを今に伝え、志賀郷の七不思議として祭りにしたと聞いた。
その茗荷伝説は今も境内の「お宝田」に伝わり、ここで採れた茗荷を神前に供え、その育ち具合いからその年の稲作の早稲(ワセ)中稲(ナカテ)晩稲(オクテ)の吉凶を占い、さらに他の作物の出来具合い、風水害や干ばつの様子までも占い、地域住民の心構えや災害への準備に役立っているらしい。
小太郎はデジカメで、この大げさで奇妙な行事を撮り始めた。当然ながらFMいかる、市役所広報、京都新聞などが取材に集っている。
肩を並べてカメラを構えた役所広報室の梅野木郁子がさり気なく小太郎に言った。
「地元では、このお祭りに親しみを込めて、ミョウガさん、と呼んでるのよ」
「じゃ、明日の祭りは竹の子さんかね?」
梅野木郁子はそれには応えず、FMいかるのノリピーに誘われてスタッフ共々場所替えらしく小太郎には見向きもしない。
いよいよ、これから宮司が「お宝田」と称する三か所の狭い石柵に囲まれた清水の流れる茗荷の田に入って行く。
お宝田に入った佐々木宮司は茗荷に向って一礼し、衣装を汚さぬように中腰で腰を屈め、左で茗荷の茎を摑み、右で鎌を振るって茗荷を抜いた。この時だけは誰一人として私語も咳もなく阿須々岐神社の森全体に静寂が訪れて、撮影の音だけが遠慮がちに響いている。
宮司が本殿正面から左手にある三か所のお宝田に歩き、早稲、中稲、晩稲の茗荷を刈り終わると、それを三宝に乗せて再び神社拝殿へ向かった。宮司に続いて拝殿に向った神社総代・自治会長などの役員が玉串奉納後、お祓いを受けると一般参拝者が延々と続いてお祓いを受けた。小太郎もそれに倣って厳粛な神事は終わった。
それからが賑やかだった。祭りの法被を着た人々の餅つき、甘酒やぜんざいの接待もあり、七色餅などの販売もあって大いに賑わった。
この日の参加者には、茗荷占いの結果を早々とコピーしたお宝付きの写しや破魔矢、甘酒に餅まで振る舞われ、小太郎も大満足だった。
小太郎は歴史は苦手だが、教科書で教わった聖徳太子の活躍時代の崇峻天皇ぐらいは知っている。大和朝廷の皇位争いに巻き込まれ、大王(おおきみ)になってからも在位わずか五年で時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)に殺される悲劇の天皇との認識だった。
その崇峻天皇が丹波一帯の平定に派遣した金丸親王は、地元豪族の強い抵抗に苦戦しながらもこれを征伐し、これも一重に神仏のご加護によるものと、この地に七仏薬師如来を納めて国家安泰を祈念したのがこの祭りの発祥だとも聞いた。
それらは志賀の里に点在し、藤波、金宮、若宮、諏訪、向田(後の篠田)の五社をとくに厚く信仰されたとの記録もある。
ともあれ、金丸親王の子孫、金里宰相がこの五社の大明神に千日参りをし、藤波大明神には「藤」、金宮大明神には「茗荷」、若宮大明神には「萩」、諏訪大明神には「柿」、向田大明神には「竹」、これらを植えて国家安泰と子孫繁栄を祈願し、大和朝廷もそれを認めている。これら五社の他に、霊験厳かとの評価が高い向田の「しずく松」「ゆるぎ松」を加えて「志賀の七不思議」として伝えられている。
その夜、小太郎は大本の節分祭に参加した。
綾部の文化財にも指定されている世界の大本節分大祭の神事には、例年なんと一万五千人以上の人が集まると小太郎は聞いている。
メインの行事は深夜ながら祭りの雰囲気は夕闇迫る五時半過ぎからの人出による賑わいに伴って盛り上がり、綾部太鼓保存会のメンバーの勇壮な太鼓奉納や参拝者への甘酒振る舞い、みろく殿前で金の達磨等などが当たる福引などがあり、夜に入っていよいよ本番になる。
長生殿にて神官が大本の歴史や神論の拝読の後、集った沢山の人形(ひとがた)や形代(かたしろ)を前に宮司が大祓いを始めた。つぎは、オリンピックの点火のようにご神火を献ずる儀式があり、続いて形代散布に拘わる祭員、そして縄文時代の河川や水を守る女神・瀬織津姫(せおりつひめ)が入殿して、本尊への献饌(けんせん)、斎主の節分大祭祝詞が奉上された。
次いで外国からの参加者も交えての玉串奉上や潔斎神事などが滞りなく済んで、いよいよ深夜の闇を照らす長柄の松明を持つ神官を先導役に、白装束の神主や瀬織津姫、素焼き壺を抱えた白装束に紫前掛けの女性祭員、巫女、信者、一般参加者などが長蛇の列を組んで長生殿前を出発し、粛々と和知川(由良川)に向かって進んで行く。その行列は橋の手前で一時停止し、神官や巫女、壺を抱えた女性祭員が静々と橋の中央に進み、あらかじめ数十灯の大提灯で明るくした国指定文化財トラス橋の綾部大橋の中央部で神言奏上の儀式の後、女性祭員の手にする緑色の壺から一斉に型代や人形の紙が蒔かれると、灯火に照らされてさながら桜吹雪のように風に舞い、川面に落ちるのは遥か彼方という風情ある幻想的な光景だった。小太郎はそれを橋の
際の土手上から撮りながら眺めていた。
人形・形代散布の神事は、深夜の午後十一時と午前二時三十分の二回、行われる。
多くの提灯でライトアップされた夜景にひらひらと舞う無数の紙吹雪を眺めて小太郎の魂も夢幻の世界に引き込まれていた。それをぶち壊すような無粋な会話が近くから聞こえて来る。
「名前を書いた形代を流すと、自分の過去の穢れが消えるそうだぞ」
「お前なんか百枚流したって罪はそのまま、川を汚すだけじゃないか」
「最近は環境保全で形代には水溶性の紙を使ってるそうだぞ」
「じゃ、トイレットペーパーと同じだな」
この日、茗荷祭り帰りの小太郎が車をITビル裏の駐車場に入れ、徒歩で大本に着いた時、すでに太鼓奉納は終盤だったが、この形代散布のメインイベントは充分に取材もし、堪能もした。この大本の節分祭は、江戸時代に綾部を治めた藩主が九鬼氏だったこともあり大本では「鬼は内、福は内」と唱えての豆まきが基本だという。その豆も炒り豆ではなく生豆を使う。理由は、国祖の大神が隠棲するとき、豆の花が咲いたら再び戻ってくる、という故事から生豆を使うとか。それと、大昔に鬼神として隠棲した国祖の大神・国常立尊(くにとこたちのみこと)は別名を艮(うしとら)の金神ともいい、明治期に大本の開祖に乗り移って蘇生したことをも祝う、大本にとっては大変重要な「大本節分大祭」の行事だった。
小太郎は、二回目の午前二時半からの人形・形代散布にも参加して、この行事を満喫した。
大本長生殿に一行が戻っての四日午前三時頃には、出口紅教主の豆まきが「鬼は内、福は内」で唱和され、さらに朝四時三十分、出口教主様他全員での斉唱があり、全ての行事が無事に終了、小太郎は夜明けに帰宅してバタンキュー、死んだように寝た。