5、綾部百人一首大会風景

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5、綾部百人一首大会風景

当日の朝がきた。
あれから小太郎は、加納美紀がさり気なくプレゼントしてくれた綾部百人一首のカードを一回だけ眺めた。これだけ多くの句を覚えようとしても、そう簡単に覚えられるものでもない。それでも、綾部に関わりのある歌ばかりだから綾部の歴史や自然を考えれば、さほど難しいことでもない。二カ月近く住む綾部の情景を思い浮かべれば、上の句を聞いただけで下の句のイメージが頭に浮かんで来る。付け焼刃ではあるがなんとかなりそうな気がした。ま、当然ながら小太郎にはそれなりの秘策があるのだが・・・。
大会開催日時は、一月中旬も終わりに近い土曜日の午後一時から、場所は大本長生・の白梅殿。この日は商工会議所に出社せず、白原百合や神山紗栄子、福岡多佳子に加納美紀ら商工会議所の正選手とは会場で落ち合うことになっている。小太郎は、朝昼兼用の簡単な洋食で食事を済ませ、武者修行の武士が道場破りでも挑むような気持ちで「いざ出陣!」と気合を入れて、カメラを肩に正午過ぎに家を出た。
ところが、大本通りには華やかな和服姿の女性や男性、元気一杯の中学生や高齢者が声だかに笑いざわめきながら大本の門をくぐって五百畳敷きの大広間に向ってゆくのだが、全員が余裕しゃくしゃく和気あいあいで悲壮感などまるで無い。
小太郎は、ここ数日、思いつめたように綾部百人一首に打ち込んできた自分が何だかバカバカしくなってきた。
この日は快晴、北風の寒い日ではあったが寒そうに背を丸めている人など一人もいない。
本宮山には、まばらな雪がうっすらと残っているがその麓にある大本長生・白梅殿の周囲には残雪も消え、軽やかな下駄や草履の足音が続いていた。玄関には大きな立て看板で会場案内があり、玄関を入って靴を棚に入れ、中に入ったところに受付のテーブルがあり、三人の和服の女性がいて、一人が小太郎をに見て声をかけた。
「大橋さん?」
「誰だっけ?」
「ビンゴ会場でお世話になった、広小路の呉服屋・レンタル衣装”芳埼”の芳埼沙也加ですよ」
「思いだしたぞ。あんたの急所キックで倒れた男がおれを殴りやがった!」
「ご免なさい。今日は、大橋さんと同じグループです。宜しくお願いしますね」
「札を取ったからって急所蹴りはなしだぞ」
受付の他の女性が目を丸くする。
「まさか? この清純でお淑やかな沙也加さんが殿方の急所を?」
「人は見かけによらんです」
その時、室内から表に向けてムービーカメラを構えた和服の女性が小声で叫んだ。
「沙也加さん、そこの男をどかして!」
とっさに、沙也加が腰を上げて、小太郎のコートの袖を強い力で引きつけた。
思わずよろめいた小太郎が受け付けのテーブルに手を付けると、カメラは小太郎ではなく、その背後の和服の女性を写している。
桔梗の花柄模様の和服がよく似合う品のいい女性がにこやかに近づいて来る。それをカメラが捉えているのだ。
その女性が、受け付けの沙也加達に「ご苦労さんね」と声を掛けると、三人が頭をテーブルに擦り付けんばかりの低姿勢で挨拶をした。
会場の奥から胸にバラの造花をつけた男性役員が、小走りに現れ最敬礼で迎えている。
その男が小太郎を見て「やあ」と軽く頭を下げた。よく見ると福居電機の福居社長、こちらも産業まつりで会っている。
「クイーン園田先生。本日はご苦労様でございます。さ、さ、あちらのゲスト席に」
ゲストの女性が ちらと小太郎を見て艶然と微笑んだ。
「あら、列車でご一緒だった百人一首のお兄さん、大橋さんでしょ? あとで知ったわ」
一瞬、何が起こったか理解できなかったが、正月二日の山陰本線で綾部駅で一緒に降りた女性を思い出した。
「あの時の?」
「わたしは園田喜久枝、あとでまた」
「なぜ、おれを?」
その時すでにその女性は、大会役員の福居と共に室内に姿を消していた。
ムービーカメラの女性が芳埼沙也加に「有難う」と礼を言い、小太郎にも頭を下げた。
「大橋さん、ご免なさい。つい邪魔だったもので」
よく見ると、FMいかるの三井明日香が悪気のない笑顔で立っている。
「明日香さんか? 今のは誰?」
「誰って、園田喜久枝さん。聞いたでしょ?」
「そうじゃないよ。何者かって聞いたんだ」
「綾部出身の元小学校教員で、全国百人一首かるた大会の上位入賞常連者、クイーン園田の称号を持つかるた名人。A級ですよ」
芳埼沙也加が付け加えた。
「教員をやめて全国のかるた教室で指導しているプロ中のプロ、わたし達は学校でもかるたでも園田先生の弟子です」
「綾部百人一首も?」
「先生も綾部市民ですから、当然でしょ」
「今回は出場するの?」
「ゲストで詠む役はしますが、プロがここで参加したら笑われますよ」
「明日香さんから、誘ってみてくれないかな?」
「まさか? 先生の独り勝ちなんて面白くもないでしょ?」
「無理かな?」
「それに、エントリー済みの出場者百人はもう場所も対戦メンバーも印刷済みで決まってますのよ」
「FMいかるは?」
「正選手四名、ノリピーに加奈子、孝也さんと社長、この四人で一回戦は商工会議所の四人と対決ですって」
「どっちが強い?」
「似たようなものね。あたしが出れば圧勝だけど、運悪く貧乏クジ引いて仕事になっちゃた」
芳埼沙也加が口を挟んだ。
「わたし達はどうせ遊びだし、ゲームも”チラシ”ですから人数が増えても関係ありません。わたしが先生を誘ってみます」
「無理だと思いますよ。大橋さんも沙也加さんと同じ組だったわね?」
「まだ、大橋さんにはメンバー表、渡してませんでした」
芳埼沙也加が立ち上りながら、受付を終えた小太郎に対戦相手を書いた一覧表を手渡した。
小太郎がそれを見て驚いた。
なんと、芳埼沙也加に加えて、西山隆夫、勝川浩一、倉林ミツエ、唐沢栄子、安東芳江、金井喜美代、山下寅二郎と、こんなところでは絶対に会いたくない名前ばかりが並んでいる。この場以外なら一緒にいて嬉しい仲間だが、ここでこのメンバーと同席では、文化都市あやべの優雅な雰囲気を味わうたえく参加した小太郎の向上心が無意味になる。いや、場合によってはマイナス現象も有り得るのだ。
案の定、紺のカーペットが敷き詰められた大広間の彼方から声が飛び、西山部長の手が上がっている。
「おーい。大橋くん、ここだここだ」
すでに、九部通り会場を埋めて開会を待つ参加者が、いっせいに小太郎を見た。なかには小太郎を知っている者もいて「よそ者じゃ無理だろ?」などと小太郎に聞かせるための独り言も飛ぶ。小太郎は急に頭痛と目まいと腹痛とを感じて、目の前が真っ暗になって足元が揺れている。つい、ふらふらと夢遊病者になって人の足や衣類を履んで怒鳴られた。
小太郎に足を履まれたあでやかな和服姿の若い女性が柳眉を逆立てて怒った。
「気をつけて! 汚い足で踏まれたら着物が・・・なんだ、大橋さん?」
見ると、梅野木郁子のふっくら美人顔から怒りの表情が消え、すぐ小太郎を無視して仲間との会話に戻っている。その隣の女性が振り向いた。長身美人の松山聖子が、幽霊のようにふらついている小太郎の生気のない顔を気の毒そうに見た。
「大橋さん。綾部の百人かるたを知ってるの? 無理しないほうがいいわよ」
岡崎恵子課長、城畑里恵など八人ほどの女性グループが楽しそうに笑いざわめきながら夫々小太郎に声を掛けてくれるのだが、小太郎には返事をする元気もない。小太郎が綾部駅に初めて着いた時に迎えてくれたメガネの高橋女史からも声がかかったが視線も合わせられなかった。ここは綾部市秘書広報課組で天国、ここならいいのに・・・とは思ったが挨拶する元気もない。「不愛想ね」との罵声を背に、地獄に墜ちる餓鬼のようによろめきながら魔の巣窟に吸い寄せられていった。
ふと、聞き覚えのある声に気付いて舞台下のグループに目をやると、なんと福岡多佳子女史を中心に萩原あゆみ、加納、神山、白原に加えて、佐々木武夫、梅田幸太郎、芦沢事務局長など男性も交えた商工会議所チームが楽しげに札を取る手振りなどして語らっている。正選手の白原百合、神山紗栄子、福岡多佳子、加納美紀の四人だけが参加と聞いていたが、これではほぼ全員参加ではないか。小太郎だけが仲間外れにされている。
それにしても楽しみにしていた綾部百人一首が、小太郎だけがいつものメンバーとでは最初から気が抜けて戦意喪失でギブアップだ。ミツエママだけは許せるが、他のメンバーとは戦いたくない。ましてや殺し屋の山下などは神聖なる大本白梅殿の敷居を跨ぐのも許せない。こんな男に触れられたら綾部百人一首の札だって悲しくなって啜り泣く。
しかし、待てよ・・・と、小太郎はここで冷静に考えた。自分だって西山隆夫に拾われて綾部に来なかったら今頃はまだ北千住の風太郎、正職もないまま母親を心配させていたに違いない。それに引き換え、山下は今や立派な工場勤めの綾部市民なのだ。
気を取り直した小太郎は「やあ」と、カラ元気で望まぬ仲間の輪に入って行った。この変わり身の早さも小太郎の持ち味なのだ。
「悪いな内緒にして。会議所にも無理言って大橋君を譲って貰ったんだ。メンバーを知らせなかったのは驚かせようと思ってな」
「あっちのほうが良かったのに」
西山の得意げな釈明を聞き流して見回すと、ミラクル美容院のミツエママの顔がない。
「倉林ママは?」
唐沢栄子が顏を曇らせた。
「実は、この前の金井さんの結婚式にも無理して出ていたけど体調を崩して自宅療養中、くれぐれも大橋さんに宜しくって」
「そうですか、残念ですね。すぐ回復すればいいけど」
そこに芳埼沙也加が伝言に来た。
「ここに。クイーン園田先生が参加します。役員からも一人欠けた分が埋まるから、って賛同を得ました」
「よかった!」
これで小太郎は一気に蘇生して活気が戻り、見慣れた仲間とのゲームも悪くないと思えてきた。
「プロがここに参加?」
おおらかな西山が笑顔で言った。
「名人の凄い技を学べるんだ。こんなチャンスは滅多にないぞ」
これで決まった。芳埼沙也加が安心したように言葉を添えた。
「園田先生から、皆さんに合わせますから遊ばせてください、とも言われました」
「立ってないで座れば?」
「わたしは受付に戻ります。始まる前に、わたしと園田先生がここに来ます」
定刻の午後一時少し前、オープニングの演奏が始まった。