5、合氣道

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 5、合氣道

小太郎は暫くあちこちを取材して帰路につき、人の出入りで混雑する正門の夜景にカメラを向けていた。
何だか奇声が聞こえて、何やら正門の真下で騒ぎが起こったらしいが、人ごみに阻まれて近寄れない。小太郎は、とっさにカメラのベルトを肩に掛け、すぐ傍らの桜の木にしがみつき、一番下の枝によじ登り正門下にカメラを構えてシャッターを押し続けた。
その経緯を省略すると、次のようになる。
冬の山里の日暮れは早いく五時を過ぎると暗くなる。
役所の仕事を終えた川崎市長と西山隆夫部長の二人は、もみじ祭りの視察に向かって雑踏の中を連れだって歩いていた。
大本通りを行き交う雑踏の中でも長身の二人はよく目立つ。日頃から市民との接触が多い川崎市長には誰もが親しげに声を掛けてゆく。
「お晩やす」「今晩は」「お疲れさん」「ご苦労はん」「お祭りでっか?」
市長はその都度、気さくな笑顔で挨拶を返して飽きる様子がない。
西山部長が感心したように話しかける。
「学生時代は、好き嫌いが激しい男だったが、社会人になったらこまめによく気がつくようになったな」
「人は環境で変わるものさ」
「それじゃなきゃ市長にはなれんか?」
「なんだ。隆夫! おまえも市長の座を狙ってるのか?」
「アホなこと言いなさんな。わしは川崎市政の応援団長じゃ」
「そうじゃった。頼りにしてますぞ」
二人は、職場を離れると高校時代の同級生の気安さで気楽に話し合える仲だった。
二人の大きな違いは、川崎市長の精悍で精力的な身のこなしと、肥満気味で鈍重そうな西山部長との体型からくるイメージの違いだった。もう一つの違いは、行き交う人々の注目度の違いだった。人々は市長には挨拶はしても、西山部長には誰一人として見向きもしない。
いや、一人だけ西山部長を気にしている男がいた。
二人から5メートルほど後方を雑踏に紛れて、中肉中背で茶のコートを着た四十代半ばの目立たぬサラリーマン風の男が、つかず離れずで追っていたのを誰もまだ気づいていない。
警視庁の荒巻刑事が警告した二人の暗殺者が、警察の捜索網にも掛からず、何の手掛かりもないまま影を潜めていることから、西山部長も小太郎も、いつの間にか何の心配もしなくなっていた。その油断が命取りになる時がくることさえ忘れている。
事件は会場の入口、大本の正門下で起こった。
ここだけが出る人と入る人でごった返していて、収拾がつかない状態が続いている。綾部警察署でも私服・制服合わせて三十人の署員を動員していて、正門にも制服の警官二名が配置されていたが、圧倒的多数の人ごみの中に潜む悪人を見抜くなど至難の業で、ただ門の両脇に吸い付くように身を寄せて、うねるような人の波をただ眺めているしかない。 その雑踏のピークが正門下だった。
暗殺者は西山部長がそこを通る瞬間を待っていた。雑踏をかき分けて西山部長の背後に密着した暗殺者は、コートの裏ポケットに隠し持った登山ナイフの鞘を払って鋭い刃先を西山部長の背中から心臓部を目がけて突き刺した、ように見えた。その一瞬、西山部長のすぐ前を歩いていた川崎部長が振り向きざま、「イヤー」と鋭い気合で西山部長を横に突き飛ばした。西山部長がよろめいて隣をすれ違ったカシミヤコートの女性にしがみつき、「イヤッ!」と頬を叩かれ、コートの襟をがっちりと掴まれて大きい図体を小さくしている。
「おまわりさん。痴漢を捕まえました!」
犯人の突き出したナイフの刃先は、そのまま市長の胸部目がけて突き進んで来た。一瞬の出来事だった。その刃先を市長が手刀で横に払ったからナイフは横に跳ねて西山部長の自称バーバリーコートの脇を裂いて地に落ちた。
小太郎が櫻の幹をよじ登って目撃し連写したのはここからだった。
市長はためらわずに腕を伸ばして、犯人のコートの袖を掴み、引き寄せて投げ倒す構えに入った。
その時だった。
それまで、沈黙を守っていた綾部警察署の警察官が両側から素早く動き、雑踏をかき分けて騒ぎの現場に躍り込み、争っている二人にしがみついて忠実に公務を実行した。
「ケンカはいかん!」
「迷惑だぞ!」
捉えた犯人の手を警官に振りほどかれて市長が怒った。その怒りが警官に向かって思わず胸を小突いた。
「犯人はそいつだぞ!」
「うるさい。きさまを公務妨害で逮捕する!」
小突かれた警官が怒って市長に殴り掛かり、もう一人の警官が警棒を振るって加勢に向かった。犯人は放置され、悠々と人ごみに紛れて姿を消した。日頃、少しは温厚に見える市長もどうやら本性を剥き出しすとかなり凶暴な面もあるらしい。二対一の劣勢にも拘わらず、投げ技関節技で二人の警官の警棒による攻撃を巧みに躱して攻撃に転じていた。
それを見た小太郎が驚いた。
攻撃と防御を一体とみて、相手の欲するところを自ら与える、という考えを根底とする合気道の極意を、市長はいとも簡単に実践しているのだ。側面や側背部などは警官二人の視野から外して攻撃させず、自分からの攻撃はいつでも楽に届く体制に身を置き、一瞬で相手の攻撃を逸らして相手の死角に入っている。これぞ入身一足(にゅうしんいっそく)の技、これが自然体で身についている。しかも、肩や首など上半身の力を軽く抜いて気力を腹部に充実させ、手を開いて五指を張り、指先に力を入れた掌底で軽く胸を突いたり、手刀でピシっと肩を叩いてみたり、警棒の攻撃には、片方の足を軸にもう片方の足が弧を描くように回転させる”体の変更”という巧みな体捌きで空振りさせたり刀捕りを試みたりして自由自在、遊んでいるとしか思えない。
勿論、真剣勝負であれば掌底から指での目潰し、急所への突きや手首を?んでの関節技へも容易に移行出来るのがよく見え、市長がかなりの手加減で警官の攻撃を弱めているのがよく分かる。世の中には恐ろしいほど強い市長もいることを小太郎は知った。
そこに、女性の手を振りほどいて体力のある元柔道選手の西山部長が参戦したから警官にはもう勝ち目はない。
「市長が乱暴してるぞ!」
「市長?」
その声で思わず警官が手を緩め、川崎市長も手を引いたが、西山部長に手加減はない。思いっきりパワーの効いたパンチを警官二人に浴びせて戦いは終わった。
冷静さを取り戻した市長が周囲を見回すと、人ごみの中に空間があって、地面に横たわっていた警官が先に一人立ち上がって同僚を助け起こしてから、市長に食ってかかった。
「市長。ケンカを止めた我々に抵抗するとはひどいじゃないですか? 公務執行妨害ですぞ」
野次馬の輪の中から中年の女性が飛び出してきて西山部長を指さして、警官に告げた。
「この人は痴漢です。はやく逮捕してください!」
西山部長の怒りの矛先が市長に向かった。
「突然、突き飛ばされてこうなったんだ。責任をとってくれ!」
「うるさい。お前が抱き着いたんだろ? もっと相手を選べ」
言い過ぎたと思ったのか、市長が女性に詫びた。
「申し訳ない。とっさの出来事だったので仕方なかったのです」
「市長。相手を選べっていうのはどういう意味ですか!」
形勢不利とみた市長が警官に向かって怒りをぶつけた。
「君らは、私が捕まえた凶悪犯を逃がしたのだぞ!」
「凶悪犯? 市長、ケンカじゃなかったんで?」
「ケンカなんかするもんか。この西山が刺されるところだったから救っただけだ」
群衆から声が飛んだ。
「おい警官! そこに、ナイフが落ちてるぞ」
これで川崎市長の身の潔白は証明されたが、合気道による底知れぬ市長の強さは小太郎以外は誰も知らない。