5、黒谷の和紙

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5、黒谷の和紙

小太郎はこの日、黒谷のもみじ祭りに来ていた。
平家の落ち武者が隠れ住んだという黒谷村という響きから、小太郎は山深い谷間の村落を想像していたのだが、意外にも現代の黒谷村は開けた場所にあって、すぐ近くには舞鶴若狭自動車道を挟んで野球場や体育館、弓道場などの施設がある綾部市の総合運動場エリアがあり、車の往来も人の出入りも多く、この日はもみじ祭りでもあってかかなりの賑わいだった。
今を去る八百数十年、壇ノ浦の戦いで源氏に負けた平家一門の逃亡者一団が人里離れた山奥のこの地に潜伏し、暮らしの知恵でこの地に野生した楮(こうぞ)の木と黒谷川の清冽な水を用いて和紙を作り、それを里に出て食料や衣料と物々交換したのが始まりで、いつの間にか国内でも名高い紙すき村として知られるようになった、と小太郎は聞いている。
朝、商工会議所の加納美紀秘書部長は、長い髪を指で漉きながら小太郎に予備知識を吹き込んだ。
「なにしろ、八百年の伝統を守る黒谷和紙は、京都府指定無形文化財ですからね」
小太郎は、その内容より加納美樹の髪を漉く仕草が気になった。
女が髪をいじるのは無意識に男を意識した時、という俗言をどこかで聞いたことがあるからだ。
その加納美紀が小太郎をからかうように言った。
「わたしは、その和紙で手紙をくれるような心遣いのある男性が好きなんですけど・・・」
とっさに小太郎が思ってもいないことを口ばしった。
「そんな和紙の手紙、、鼻紙にちょうどいいかな?」
加納美紀の髪を漉く手が止まった、小太郎への好意が一気にしぼんだらしい。
(しまった!)
とは思ったが、小太郎はすぐ立ち直って殊勝に考えた。
綾部に来てまだ間もないのに女性どころではない、当然ながらまず仕事が先だ。
車で来られない人のことを考えて、バス停に近い黒谷和紙会館の駐車場に愛車を停め、広い村内の会場を隈なく歩くことにした。
最初から車なしで黒谷村に来るには? そう考えて調べると、交通面から見ても秘境には間違いない。
なにしろ黒谷への綾部駅南口発地域循環バス・通称あやバスは一日往復わずか四本、八、十、十四、十六時のそれぞれ十七分発、黒谷和紙会館発の綾部駅行きもそれに準じているから乗り損ねるとタクシーを呼ぶことになり、とんだ散財になる。
黒谷和紙会館内では、画仙紙や染め紙、眼鏡ケース、名刺入れなど黒谷和紙加工品の販売が行われていて、もみじ祭りへの参加客がお土産用に並んで購入していた。
「おや? また会ったな!」
肩を叩かれて振り向くと、安国寺で写真を撮りあった四十代の男の顔がそこにあった。
「仕事前に観光ですか?」
「まあ、そんなところだ」
「ご一緒しますか?」
「私はこれから紙すき体験に挑戦するんだがね」
「面白そうですね。申し込んだんですか?」
「参加料七百円払って順番待ちでな。あと二十分ほど時間があるんで、パネルを見てたところだよ」
「展示中の”紙が出来るまで”ってやつですね?」
「そうだ。印刷にも興味が・・・いや何でもない」
結局、小太郎も共同申込みに追加し、参加費を払って紙すき体験を共有することになった。
申し込み用紙の氏名欄を見ると、東京都新宿区の下山一蔵とある。
「下山さんですか? おれは大橋小太郎といいます」
「まさか?」
「まさか?って、本当に大橋小太郎って名ですよ」
「どこに勤めてるんだね?」
「ここ綾部の商工会議所です」
男が絶句して、まじまじと小太郎の顔を見ている。
「おれの顔に何かついてますか?」
「いや。何となく気の毒になってな」
「気の毒? 分かりますか?」
「なにが?」
「また今朝も振られちゃったんですよ」
「なんだ、失恋か?」
「そう簡単に言わんでください。深刻なんだから」
「まあいい。紙すきで心の傷でも癒せ、どうせ長くない・・・」
なにか言いかけて下山があわてて言い直した。
「長くない独身時代だ。失恋も経験のうちですぞ」
「冗談じゃない。そんな経験まっぴらですよ」
「所詮は短い人生だからな」
会話がかみ合わないままに、二人は参加費七百円の紙すき体験でハガキ大の和紙を八枚づつ作った。
これは枠に目の細かい網が張った木枠を両手に抱えて、楮(こうぞ)の木の皮などを茹でて溶かした粘液状の水槽に漬けて揺すると網の上に薄い膜が残る。それを剥がして乾すと和紙になるのだが、これを八回行うわけではない。木枠の中がハガキ大の枠八ケに区切られていて、一度の作業で八枚のハガキが出来上がるのだ。その完成品は、係りの青年の説明では、天日でよく乾かしてから申し込み用紙の住所に送ってくれるという。下山がなぜか慌てて言った。
「私は不在が多いので、全部、この大橋さんに送ってやってください」
ともあれ、ハガキとして使えそうなのは二人合わせて十六枚中、四,五枚あればよしとすべきと小太郎は思った。