8、春がすみ

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 8、春がすみ

春がすみという言葉通り、春は空でさえ色が変わる。
冬の澄み切った冷たい透明感のある青から、淡いライトブルーがかった空色になり、地上には花が咲く。
幼稚園、小、中、高校と卒業式、入学式と続き、父兄も着飾って出かけるから綾部市内はどこもかしこも賑やかになる。人口約三万三千人で三十年前より一万人の減少をみる綾部市は、さすがに文化度の高さを示すように教育施設は充実している。
農業者研修教育施設を有する京都都府立農業大学校、京都府立綾部高等学校、京都府立綾部高等学校東分校、私立の中学校は、綾部中学校 、上林(かんばやし)中学校、豊里中学校、何北中学校、東綾(とうりょう)中学校、八田(やた)中学校、市立の小学校は、綾部小学校、上林小学校、吉美(きみ)小学校、志賀小学校、豊里小学校、中筋小学校、西八田小学校、東八田小学校、物部(ものべ)小学校、東綾(とうりょう)小学校と目白押し。幼稚園も市立だけで七ケ所もあって、綾部幼稚園、中筋幼児園、八田幼稚園、八田幼稚園、山家幼稚園、豊里幼児園、奥上林幼稚園と林立状態で、過疎地区の奥上林などでは子供の姿が珍しいぐらいですが教育はしっかりと行われています。
この季節、卒業式、入学式、新入社員歓迎会などで引っ張りだこの川﨑市長は、自分を補佐する上浜尚人副市長や安達雅夫教育長まで動員して、分刻みの挨拶や激励で大多忙、こればかりは並の体力では続かない。
それにしても、この綾部市は人口の少ない割には、圧倒的に学校数が多いことでも文化度の高さが理解出来ると小太郎は思った。桜咲く市内のあちこちでは、つい先日まで幼稚園や保育園に通っていた幼な子が、背中より大きい真新しいカバンを背負って、引っくり返らないようにと前のめりで必死に歩いている姿が見かけられ、その誰もが初々しく愛らしい。
幼稚園から小学校、小学校から中学校、ニキビ面の中学生も高校へ。高校生は大学進学や就職して実社会へと巣立ってゆく。
なにか万物が生まれ変わるような春、社会人でも人事異動で立場が変わる人もいる。この場合、一般的には栄転で「おめでとう!」なのだが、栄転したのに本人が嬉しくない顔をしている場合があるから大人の世界は複雑なのだ。どのような場合かというと、慣れた職場から全く不慣れで何の知識もなく、肩書が少し上がったが給料は同額で仕事量や責任感が倍増したような場合だ。
この春、綾部でもちょっとした人事異動があった。京都府警の機動隊長から綾部警察署に移動したのが掛川徹署長。市の定住交流部から綾部市市議会事務局長に赴任したのが西山隆夫部長。本人が気乗りしようとしまいと部長から局長なのだから出世には違いない。
そこで、小太郎が個人的にささやかな祝賀会を計画した。
小太郎としては、自分も少しは飲みたいから自分の住まいから近距離の場所で、予算もそこそこの店を考えた。その結果、ここのところ時々は通っている味処桃太郎に決め、まず、ミラクル美容院の蔵林ママに電話して仲間集めを依頼した。すると、数分で返信がきて、寅さんこと殺し屋の寅さんらも呼びたいから五、六人の予約でいい。携帯を手にして、番号を打ち込んだ。この数字は、以前、梅野木郁子が店に電話するときに呟いた「日本料理なのに番号は、綾部0773、五人でハム食おう」がヒントで、それを数字にして、0773-52-86XX」と打ち込むだけだ。すぐ、村中有子ママが出た。
「味どころ桃太郎でございます」
「大橋小太郎です」
「あら、しばらくです」
「昨日も行きましたが?」
「そうでした。いつものランチ定食でしたわね。今日はもうお昼は終わりました」
「今度の金曜日の夜、七人で予約できますか?」
「お座敷のテーブル一卓で間に合いますね。ちょっとお待ちください」
一応、接客業の常として即答はせず、数秒ほど間が空いた。
「お待たせしました」
何となく声が違うような気がしたが、構わず続けた。
「予約OKですあg、どのような会ですか?」
「いちいち言う必要がありますか?」
「料理のセッティングなども考えますので」
「栄転祝いってとこですかね」
「どなたの?」
「市役所の西山隆夫・・・」
「分かりました。人数は七人でしたね?」
「そうです」
「会費制ですか? それとも大橋さんのオゴリ?」
「会費制ですよ」
「では、二人増やして九人で予約します」
「どういう意味です」
「大橋さん!」
「な、なんですか急に?」
「わたし、松山聖子です。声で分からないのですか?」
「変だとは思ったのですが」
「これじゃ、恋人失格ですね」
「恋人!」
「いえ、もう結構。梅野木に替わります」
「ちょっと・・・」
相手が変わった。
「梅野木です。どんなご用ですか?」
「どんなって、宴会の申し込みですよ」
「それだけですか?」
「それだけですよ」
「松山からデートの申し込みがあるかも、と言われて電話に出たのに」
「デート? それなら今からでも」
「だめです。女心と春の空って知ってますか?」
「知りませんよ。そんなの。有子ママに替わってください」
「有子ママが忙しいから、松山が気を利かして替わったんです」
「お二人は、その店とどんな関係ですか?」
「わたし達が常連さん。それで納得できなければ有子ママとお友達、それでも」
「もう結構」
「では、今週の金曜日、夜六時で九人、会費は一人五千円で飲み放題。なにか?」
「文句はないけど」
「では、細かいことは後で」
その後は何の連絡もなくて当日がきた。
仲間内の飲み会だからと、商工会議所から自宅マンションに一時帰宅、スーツからブルゾン・ジーンズに着替えて会場に急いだ。
六時に一分ほど遅れて、若松町の味処桃太郎にたどり着くと何だか様子がおかしい。店の前に立て看板があり、「祝・西山隆夫様、綾部市議会事務局長ご就任」、その左下隅に小さく、発起人・綾部市商工会議所・大橋小太郎とある。しかも、店の玄関上部には「本日貸切り」の紙が貼ってある。悪い予感はしたが店内に入ると、有子ママが迎えに出た。
「発起人が遅刻なんて」
「たった一分ですよ」
「山陰本線の特急なんて五秒も待ってくれません。皆さん、お待ちかねです」
店内は座敷もイス席もいっぱいで、小太郎が誘った五人の他に、市役所が市長以下七、八人。FMいかるが井坂社長以下四、五人、商工会議所は中上専務理事以下五、六人、市会議員らしき集まりが五、六人、見慣れた商店主らが七、八人、総勢四十人ほどが集まっている。しかも、小太郎の知らない顔も多い。しかも、最初に声をかけた蔵林ミツエママの五人グループは座敷の一番奥で不満げに小太郎を睨んでいる。
短期日の間に、西山隆夫個人の人生の新たな門出を祝うために、これだけの人が集まってくれる。小太郎はこの西山の人柄に感動した。
「お待たせしました。この会を企画した大橋小太郎さんのご到着です」
なんと”FMいかる”の坂上かな子嬢がマイクを握っている。これで小太郎は気をの;まれた。
まばらな拍手の中を、言われるままに西山隆夫の隣に座ると、その横に川崎市長がいて、西山部長の肩越しに、「今回はご苦労さん」と、小声で小太郎の労をねぎらった。だが、小太郎は何もしていないから返事もできず、ただ曖昧に笑って誤魔化すしかない。これが平均的日本人のマナーだからだ。ひとまず、乾杯となって祝賀会が始まった。
「商工会議所専務理事の中上進次郎さま。乾杯の音頭を宜しくお願いします」
座卓を挟んで川崎市長の対面に座っていた中上専務理事が、ビール入りグラス片手に立ち上がり、一方の手で渡されたマイクを握った。
「乾杯の前に一言」
「短くね」
チラと声のする市会議員のいる方角を睨んでから中上専務理事がゆっくりと座を見まわした。
「この度、西山隆夫君が市議会事務局長に抜擢されたのは、決して定住交流部の仕事が停滞したのではなく、与党と野党の論戦で闘争的雰囲気で険しくなる市議会の雰囲気の融和のために、その温和で茫洋とした人柄を見込まれての赴任なのです。なにしろ、超党派で多くの市議会議員からの要望もあってのことですから名誉ある昇格ともいえます。さらに、西山隆夫君の定住交流部在任中の大きな功績の一つを上げておきます」
「前置きが長いぞ!」
その声を無視して中上専務理事が続けた。
「千葉県松戸市役所の”なんでもやる課”に出張研修の帰路、北千住駅構内においての人命救助と、それに関わった無職の青年をこの綾部市に定住化させた実績、さらに、その青年をわが商工会議所に{綾部の救世主}として就任させたこと、その青年が、この祝賀会の発起人・大橋小太郎君です」
ここで拍手が出て、小太郎は照れながら少しだけ腰を上げ低頭してそれに応じたが、誰も見ている気配はない。
「大橋君はいまだ天賦の才を発揮してはおりませんが、いずれは、観光、文化、特産品、歴史と癒しの里・綾部を日本全国はおろか、世界に向って発信してくれるはずです。その未来の{綾部の救世主}を拉致してきた西山隆夫君こそ真の功労者であります」
そこで中上事務局長が、すでに気の抜けたビール入りグラスを掲げた。
「では、隠れた未来の影の功労者、西山隆夫君の市議会事務局長就任を祝って、乾杯!」
「カンパ~イ!」
グラスを置いてからの盛大な拍手に隠れて「拉致か?」とか「救世主は詐欺だな」とか、市会議員の固まっている席だけが騒がしい。
井坂社長の隣席に座った坂上かな子が、乾杯のビールではもの足りないらしく、仲間の土屋えつ子を促して注がせた冷たいビールを一気に飲み干して立ち上った。
「それでは、友人を代表して川崎源也さま。ご祝辞をお願いします」
小太郎同様に、替え上着の薄茶の木綿ズボンというラフな服装の川崎市長が困惑した表情で立ち上って周囲を見渡した。
「西山君、おめでとう。今日は仲間の飲み会と聞いて気楽に参加したのに、仲間じゃないのもいるじゃないか?」
市会議員の溜まり場から異論が出た。
「意義あり!」
思わず坂上かな子の態度が改まった。
「発言を認めます」
「共産党の堀内達男です。市長はいま偏見の目で私を見ましたな?」
「偏見ではなく本音だよ。私は今日は市長ではなく、高校時代からの友人として参加してるんだ。お前さんは?」
「私は市長とは市政での考え方は真逆で反対ばかりだが、古参議員として、西山さんに市議会運営のコツなどを指導している。西山さんは市議会の潤滑剤、酒は私と西山さんの潤滑剤。今じゃ私ら二人は親しい飲み仲間ですよ」
「西山、本当か?」
「本当です。もちろん、個人的に飲むときは飲食代は各人払いですが」
そこで蔵林ミツエママの手が挙がった。
「一般市民からの質問!」
「ミラクル美容院のママですね? 発言を認めます」
「蔵林といいます。西山さん。領収書の宛て先は?」
「ミツエママは、仲間を疑ってるんですか?」
「いや、疑ってはいませんが、山陰地方のある市議会の活動費の不正で十二人も議員退職がありましたから気になっただけです」
「そんなの、予算の少ない綾部である訳ないでしょ。それに、私は、まだ赴任したばかりですよ」
「でも、いま、堀内議員が一緒に飲んでるって言ったじゃないですか?」
「市議会に赴任する前のことですから、気にしないでください」
「分かりました」
「じゃ。こうしましょう。しばらく市議会で仕事してから綾部市民新聞に局長談話として載せます」
なんだか雲行きが怪しくなったので、川崎市長が話の腰を折った。
「まあまあ、西山君のためのお祝いなんだから、仕事は横に置いて、大いに飲みましょう」
刺身の盛り合わせや天婦羅などが順次、卓上に並べられていて、小太郎はすでにビール片手に箸と口を動かし始めている。政治音痴の小太郎でも、これからの西山局長の行政面での苦労の多さが想像できて、少しは同情せざるを得なかった。
これからは、たとえ、コーヒー一杯でも公私の別に透明感が求められ、西山局長の持ち味である”春がすみ”が通用しないのだ。