1、仕事の依頼

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第七章 綾部のもみじ祭り

 1、仕事の依頼

十一月の上旬、秋の気配が深くなった頃だった。
「依頼主の仕事に邪魔な悪ガキを一人、誰にも知られんように始末してくれりゃいいだけだ」
土建業を表看板にする曙興業の橋立竜一組長は、頬に刀傷のある凄い顔で葉巻をくゆらせながら気軽に言い、前金のニ百万円の札束を裸のまま卓上に置いて寅二郎の前に押し出したが、脅すことも忘れない。
「残りの五百は仕事を終えたら払うが、失敗したら小指一本じゃ済まねえぞ」
「では、頂戴いたしやす」
橋立組長は、還暦祝いに娘がくれた赤いチョッキを「似合わねえ」と呟いた組員の指を詰めたというほど気が短い男なのだ。
この仕事を請け負った山下寅二郎は四十二歳、男の後厄で今年は仕事らしい仕事もなく冴えない一年で終わるところだった。暮れに近づいた十一月に舞い込んだ仕事が、京都府綾部市の商工会議所に勤めたばかりだという若者を消すだけの簡単な仕事で報酬も悪くない。これでやっと正月を迎えられる。
山下寅二郎は富山市内の薬屋の生まれだった。
今は廃業したが以前は家庭常備薬の薬屋だったことで若い頃は各地を回り、綾部市にも何度か訪れて土地勘はある。それも、薬の入れ替えで訪問しただけだから顔を見知られている恐れはまずないとみていい。寅二郎はそう思った。
京都府綾部市といえば、昔から京都の奥座敷と言われて風光明媚な土地柄として知られていて、一週間ほど過ごすのも悪くはない。人口三万そこそこの街だから目指すターゲットもすぐに見つかるだろうし、おびき出して仕留めるのも雑作のないことに思えた。
ただ、仕事の痕跡を残さずにやり遂げるには多少の工夫が必要となる。大橋という若者が自分から綾部を出た形に持ち込んだ上で消すのが最善の策になる。橋立組長の説明だと、その若者は綾部で就職してまだ日も浅く、土地の人ともまだ馴染んでいないらしい。だとしたら、そんなガキが姿を消したからといって大騒ぎする者もいないはずだ。
寅二郎はますます、この仕事が安易に思えて気が楽になった。しばらくは物見遊山の気分で綾部市の名所旧跡巡りで京都の奥座敷を散策して晩秋の風景を楽しめる。
十一月の綾部の風物詩といえば何といっても各地のもみじ祭りが有名で、これは十一月中旬からだからまだ充分間に合う。その走りは黒谷のもみじ祭りで、今から約八百年前の源平争乱の折、戦いに敗れた平家の一団が丹波の山深い谷間の里に身を隠し、ひそかに山に自生する草木で紙を漉くことを覚え、やがて、その和紙が暮らしの元となって黒谷の名が広まり、今では綾部の代表的な文化遺産にもなっている。
この黒谷一帯の紅葉の季節の見事さは、詩情のかけらもない寅二郎でも忘れることの出来ない景観が秋の風物詩としてとして頭の隅に残っていた。それに、最近では大本教でも広大な庭園を開放して市に提供し、そこで”綾部もみじ祭り”を行うという。ここを見物しない手はない、寅二郎は今回の仕事に乗り気だった。
そんな綾部を舞台に、こんな朝飯前の仕事で正月のモチ代が稼げるのだから、寅二郎が二つ返事で請け負ったのも無理はない。
正月といっても寅二郎には妻子もいないから身は軽い。以前は、暮れから正月にかけては地方の温泉宿か太平洋上を航海するクルージングなどで過ごすのを常としていたが、ここ数年は稼ぎが悪くて理想の暮らしとはほど遠い貧しい日々を過ごしていた。今年は、その越冬資金として間もなく成功報酬の七百万が手に入る。東京都台東区にある元締めの土建業・曙興業の橋立組長は、この仕事を一千万で受けて三割をピンハネして寅二郎に丸投げだから土建屋の裏稼業としては悪くないはずだ。寅二郎としても浮き草のような若者を一人消すだけで七百万は、年の瀬が迫っての仕事だから有り難い話なのだ。なにしろ給料もボーナスも健康保険も年金もない自由業だから、稼げるときに稼いでおかないと老後の生活が見えてこない。
寅二朗は、十五歳の時に暴走族グループの争いで傷害罪で逮捕されての少年院暮らし以来、一匹狼として裏社会で生きてきた。傷害前科五犯と犯罪歴は重ねてきたがまだ人殺しはしていない。ただ、仕事上で怪我を負わせた暴力団の組長がそれが原因で死んだり、依頼者の反対組織の用心棒に重傷を負わせ死に至らしめたことはある。それらが寅二郎の実績になって仕事の注文が入るようになった。寅二郎の考えでは、命を奪うほどの人間ならよほどの極悪人に違いない。だから、この仕事は世の中に役立っているはずなのだ。
寅二郎は自分でもそう思うのだが、人当たりも良く人祖も悪くない。その上、腰も低いだけに誰からも好かれ、どこの組からも重宝がられて声がかかって来る。ただ、その役柄がいつも端役なのが気に入らない。ただ今回は自分が主役なのだ。
オレオレ詐欺が劇場型になるにつれ、寅二郎のようなキャラが必要視されて警官役、弁護士役などで声がかかるが、殆どの仕事が臨時の日雇い扱いでの日当だけだから生活は苦しかった。今回は主役だから、一時的にしろ貧乏生活から解消されるのだ。
仕事の完了日時は十二月末日年内いっぱいということだから、時間的には充分余裕がある。
寅二郎には、相手の氏名と「依頼主のビジネスの邪魔」という単純な理由しか聞いていない。それ以上の細かい必要情報は、寅二郎自身の足と耳で集めた上で短期日で完璧に仕事を仕上げるのだ。いずれにしてもこの仕事はプロの意地に賭けても、ゴマ粒ほどの痕跡も残さずにパーフェクトにやり遂げねばならない。
ただ気になることが一つある。
曙組組長の橋立竜一が.チラと言いかけて引っ込めた次の言葉だった。
「もう一人の消したいお邪魔虫は、よその組が受けたらしい」
「この大橋というガキの他にも消したい奴が?」
「そうだ」
この話はこれで終わり、寅二郎の脳裏からも薄れた。
大橋小太郎の他にどんな悪党がいて、それがこの世から抹殺されようと寅二郎には関係のない話なのだ。
ただ、そっちのほうが大物だとしたら主役の座は奪われる。これが気がかりだった。